「へーっ、これが銀時計か!」

 東方司令部の中庭でパンを咥えながら面白そうに銀時計をいじるハボックが声を上げた。太陽に翳して仰ぎ見るのにエドワードは笑ってしまう。
「大佐も持ってるだろ。見せてもらったことねえの?」
「あの人が使ってんのを見たことはあるけどさ、見せてくれーとは言えねえだろサスガに」
 お子様な俺相手なら言えるってことか?少し面白くないけれど、まあいいかと流してやる。試験の後、結果が出るまでここの人間には結構世話になった。彼よりも随分年下なのも確かだし、それに実を言うと、彼らに子供扱いされるのはそんなに気分が悪くない。子供だからと馬鹿にするのではなく、慈しむように手を伸ばしてくれる彼らにならば、ほんの少し甘えてもいいかな、と思うのだ。
 …ひとりの偉そうな男を除いて。

 国家錬金術師試験から1週間。結果を待つ間、宿を取って待とうと思っていたのだが、皆に勧められるまま司令部の寮に居座ってしまった。けれどもそれももう今日で終わる。結果を貰った今ここに残る理由はない、リゼンブールで首を長くして待っている弟がいるのだから。
 なんだかなあ、とエドワードは思う。ここに来るまでずっと、軍人などみないけすかない人間ばかりだと信じていた。必要以上に軍人には関わらないでいようと決めていた。なのに、東方司令部ではみんな優しくて、暖かくて、申し訳ないくらい良くしてくれた。思い描いていた軍とは全く違って、どうしていいかわからなくなるのだ。

「なんにせよおめでとさん鋼の錬金術師殿。少佐相当官だっけ?うわー、あっというまにおまえのが上官か…」
「まあ形としてはな。でも余計な気は使うなよ、今更ここの人間に敬語とか使われても気持ち悪いし」
「ああ。ってか使えって言われても無理かもな俺は。どーもそーゆー堅苦しい言葉って苦手なんだよなー」
「…少尉、そのせいで昇進できないんじゃねえの?」
「ひでっ、違えよそれは大佐のせいだ、あの人の下にいると出世できないのは有名なんだぜ」
「ふうん。なんで?」
「知らねー。あの人のことだから僻みとかじゃあないんだろうけど。敵が多いから阻まれてんのかね?まあ本人はエリートコースまっしぐらだけど」
「フーン…」
「ま。おまえさんも階級とかは気になんないタチだろ?だったらあの人の下に付くのは正解だ」
「そう?でも」
「ん?」
「俺はあいつの下に付くつもりはないよ」
「…………えーと?」
 しっかり10秒、ハボックは固まった。意味がわからない、という表情を隠すことなく晒している。自分は結構正直な人間だと思うけど、もしかしたら彼も同じようなものなんじゃないだろうか。

「俺は大佐の真正面に立ちたいんだ」



 太陽のようなひとだと思った。
 春のリゼンブールの優しい太陽なんかじゃない。真夏の砂漠の灼熱の太陽だ。すべて焼き切ってしまうような熱くて激しい太陽だ。彼の二つ名が焔だと聞いて、ひどく納得した覚えがある。
 彼の示す道がまっとうでないことなど解っていた。優しさから伸ばされた手ではないことも解っていた。その手を取ってしまったら己もまた劫火の道を行かなければならないことなんて十二分に解っていた。
 それでも焦がれた。地べたで呻いていた自分にはたったひとつの光だった。愛している弟すらも己の罪の象徴にしか見えなくて、苦しくて苦しくて罪の意識で窒息しそうだった自分にとって、世界を照らすたったひとつの光源だった。だからここに来たのだ、彼が示したから来たのだ。這い上がるために。生きるために。

 己が体を奪ったたったひとりの弟が、これからを胸を張って生きられるために。

 そうしろと、そうできると、彼がそう言ってくれたから。



「…俺さ、大佐にでっかい借りがあるんだ」
 唐突な台詞にハボックは銀時計をいじる手を止めた。彼が見たかったなら今見せられて良かった、銀時計はリゼンブールに帰ったら封印するつもりだから。それを罪の象徴にしようと思う、弟に笑顔を向けるために。
「たぶん、これからも借りばっかり溜まっていくんだと思う。できるだけすぐに返していきたいんだけど」
「…よく知らねえけど、探しモノがあんだろ?」
「うん、それが一番の目的だから借りを作るのは仕方ないんだけどさ」

「だからって卑屈になりたくない、あいつを仰ぎたくもない。いつだって真正面から見据えたいんだ。んで最後にはまとめて全部借り返して、バッカヤロー、二度とテメ―の世話にはなんねえよって言ってやる!」

「…おお、そりゃあ楽しそうな野望だな…」
「だろ?」
 ハボックを見上げてニヒヒと笑う。ぐしゃぐしゃに頭を撫でられたから、煙草臭いと返してやった。




 大丈夫、俺は走れる。