春、寧日。
ガンガンガンと派手な足音を隠しもせずに、オスカー・モームはアパートの階段を昇る。3階に足を踏み出してすぐにあるのがエドワードの部屋だ。
「よぉ、生きてるか?」
ノックもせずにドアを開ける。そんなことを気にする相手ではないとわかっているから、今では皆そうしているのだ。
「おー、今手ぇ離せない」
「そりゃいつものことだろーよ」
オスカーは適当に買ってきた食料品を冷蔵庫に放り込んで、机に向かって何やら没頭しているエドワードの後ろを通りすぎてベランダに出た。部屋の主は未成年だから、煙草を吸う時はいつもベランダに出ることにしているのだ。
「よくやるよ全く…」
オスカーは苦笑しながら煙草に火を点ける。半分呆れ、半分称賛の本心だ。
エドワードのことは彼の編入当時から知っていた。けれども初めて会話を交わしたのはふた月前のことだ。オスカーは医者の息子ではあるけれど頭の方はからっきしで、大学にいるのだって裏口入学みたいなものだ。天才なんてものには縁がないと思っていたのだけれど、ひょんなことから当代随一と名高いエドワード・エルリックの世話をすることになった。普段つるんでいるニコラス・ローリーが金色のお子様をえらく気に入ったのだ。
…そう、世話をする、という表現が一番正しい。
一体彼は、今や自分とニコラス、アレックスの間に「エサ当番」があることに気が付いているのだろうか?ニコラスとの賭けで気付いている方に一票入れたのは自分だったが、あの時の判断は誤りだったとつくづく思う。賭けの成立は1週間後だ、何ならバラしてしまおうか。
ふう、とオスカーは紫煙を吐き出す。ガラス越しにエドワードの部屋を見回した。本に埋め尽くされつつあるこの部屋は、勤勉なアレックスと好奇心旺盛なニコラスにとっては垂涎モノらしいが、とうに勉学を放棄した自分にとっては暇つぶしにもならない。集中したエドワードと二人きりの時は大抵こうしてベランダで煙と戯れているのだ。
天才ってのはそんなもんなのかねえ。
エドワードは集中していると完全に外部が遮断されるらしく、返事があった先程は随分マシな方だ。オスカーは彼が気付くまで3時間、床で眠りこけていたこともある。
エドワードに視線を移して、おや、とオスカーは驚いた。彼にしては珍しく、ペンを置いてオスカーを見ていたのだ。いや、正確にはオスカーの手元にある煙草か。
どうしたんだろうと訝しむ。彼の前で煙草を吸ったのは一度や二度のことではないのだけれど。
からり、とエドワードはサッシを開ける。それから小さく笑ってごめんと言った。
「なにがだ?」
「来てること気付いてなかった」
「…おまえ、さっき返事しなかったか?」
「したっけ?なら無意識だな。いや、習慣?」
「どっちでもいいけどよ…」
首を傾げられては苦笑するしかない。エドワードはそんなこちらを気にすることもなく、それ、と煙草を指さした。
「あー、悪ィ、気になるか?煙い?」
「いや、そーじゃなくて。…1本くんない?」
オスカーは目を丸くした。今までこの子供が(17歳らしいが、体格に恵まれたオスカーにとって彼はせいぜい15歳くらいにしか見えない)喫煙するところなど見たことがなかったからだ。
「おまえ、吸うの?」
「吸ったことはないけど。知り合いがさ、ガキの頃は吸ってたって言ってたの思い出して。どんなもんかと」
「フーン。ま、いーけど」
そう言って箱から1本差し出してやる。ついでに火も点けてやった。
すう、とエドワードは吸い込む。面白そうに細める目つきは子供のそれだ。
「ゲホ…。こんなんなんだ」
「旨いか?」
「よくわかんね。嫌いじゃないけど」
「その知り合いっていくつ?」
途端にエドワードは咳き込んだ。
「い、いいだろいくつでも!」
「いやいいけど…。なんだよ、そんなに変な質問だったか?」
「突然聞くからビックリしたんだよ!」
「あっそ…」
「……当時29歳」
「あ?当時っていつだよ」
「数年前」
「答える気ないなおまえ…」
何気ない振りを装ったけど、本当は気になっていた。エドワードの言う「知り合い」が誰なのか。
意識しているのかいないのか、彼は時折零れ落ちるように「知り合い」を口にする。そして遠くを見るような目で、小さく、本当に小さく笑うのだ。
そんな時だけ、このお子様はやたらと大人びた空気を纏う。それは雨を眺めている時だったり、小銭を弄んでいる時だったり、関連性はわからないのだけれど。
エドワードにとって、その「知り合い」が大切な人間であることは間違いないのだろうと思う。
「…おまえさ、なんで3階になんか住んでるんだ?めんどくさがりのくせに」
「え?うーん…。景色がいいから?」
「どうして疑問形なんだよ…」
オスカーは、煙草を銜えてセントラルの街を眺めているエドワードの表情を盗み見た。
ああ、なんでそこで微笑むかなおまえは。
彼の「知り合い」はこの街にいるのだろうか。だとしたら、何故彼はこんなにも切なそうに微笑うのだろうか。
何故いつも語り口は過去形なんだろうか。
何故彼は会いに行かないのだろうか。
何故「知り合い」は会いに来ないのだろうか。
尋ねるつもりはない。
けれど今、彼の「知り合い」が同じ空を見上げていればいいと、祈った。