2階建ての図書館の、上の階のいちばん西。大学内にも数冊しかない錬丹術の本が置いてあるすぐ脇の人気のない閲覧席が、目下のところエドワードのお気に入りスペースだ。日ごろ教室にも部屋にも押し掛けてくる友人達も、この場所にだけは来ないことにしているらしい。孤独が好きな訳ではないけれどしばしば一人の時間が欲しくなる習性を察してくれる友人達に、エドワードは感謝している。
 本棚に挟まれて、側面の小さな窓から西日が差し込むこの閲覧席は、あの場所にとてもよく似ている。賢者の石を求めて旅をして、報告と休息のために戻る度に立ち寄った東方司令部の中の資料室。佐官以上しか入れないその部屋でエドワードはいつも時間を忘れてしまって、毎回夕暮れになると弟に泣き付かれた彼が笑って迎えに来たものだ。エドワードはそんな思い出を取り出して、懐かしんでから再び文献に取り掛かる。

「精が出るな、エルリック」

 掛けられた声に顔を向けた。薬学を教える年若い助教授だ。ウィリアム・リードという名のその青年は、手に持ったシンの医学書を見せてからテーブルの一角を指さした。
「悪いけど、ここいいか?辞書があるのここだけなんだ」
「どうぞ、というか俺の方こそテキスト広げててすみません。出直しましょうか」
「いーっていーって。それから敬語も別にいいぜ、教えてる側って言っても大して年は変わんないしさ。そもそもおまえは優秀すぎて俺は教えてる実感がない。それにおまえ、敬語とか苦手なタチだろ」
 そう言ってにひひと笑うリードはどこかハボックを思わせた。親しみやすい雰囲気にエドワードもつられる。
「バレました?じゃ、悪いけど遠慮なく。ところで先生、それシンの?勉強してんの?」
「おう、向こうは医学が随分盛んだからなー。学んでみても損はないだろ。おまえこそそれ何?……錬丹術?ああそっか、錬金術師なんだっけ」
「シンじゃ錬丹術も医学分野で発展してるんだ。錬金術と融合できたらなと思って」
「へえ、オモシレーことしてんのな。何をどうするのかさっぱりだけど」
「はは、特殊な分野だから。先生はどんなことやってんの?やっぱり薬学?」
「まあそれが中心だな。信じがたいんだが、奴ら草の根っことか木の皮とかを薬にするんだぜ?」
「……それって薬になんの?」
「それが、なるらしいんだよなあ…。あ、そうだエルリック、おまえシンに友人いるんだって?先月の不審者騒ぎ。今度その薬がどんなもんか聞いといてくれよ、効き具合とか」
「あー、あいつこないだ帰っちゃったんだよな。でも多分またそのうち来るから、その時は聞いておくよ」
「頼むなー」





 半刻ほど経っただろうか。気付けば二人とも本来の目的はそっちのけで医学談義に夢中になっていた。医大の中にあってもやはりシンの医学を学ぶ環境はなく、お互い独学で進めてきたのだ。話し合えるのは純粋に嬉しかった。
 とりあえず弾丸のような応酬を終え一息吐いたところで、そういえば、とリードが言った。
「エルリックさー、軍属だった時、マスタングの下に居たんだって?」
「…先生、詳しいな?普通の人はそんなこと知らねえよ」
「俺の父親、元軍人だからな。去年退役したばっかだ」
「あー、成程。確かに俺は中将のトコにいたけど。それがどうしたんだ?」
「マスタングって去年のシンとの同盟の立役者だろ。やっぱりあいつもシン贔屓?」
「どうだろ。数年前に非公式だけど偶然シンの皇子と知り合う機会があったから、それを利用しただけじゃねえかな。あいつが個人的にシンについて言及するのは聞いたことないな」
 記憶を探りながら話すエドワードに、リードはにやりと笑みを見せる。
「…なんだよ」
「いや、随分親しいんだなあと思って?プライベートのことも知ってるみたいだし、元上司をあいつ呼ばわりするし?」
「な、ちっげーよ!」
「ムキになるなよ、余計怪しいじゃん。おまえその正直なのが癖なら直した方がいいぜ」
「これでもかなり直ったんだよ!」
「ほっほー、直した上でもマスタングの話題だとうろたえる、と。いやあ顔が赤いぜエルリック君」
「だーかーらー!」
「図書館ではお静かに。おまえもしかしてそーゆーシュミあんの?」
「どーゆーシュミだよ…」
「女が駄目なんじゃないかってな。おまえこの間美人の2年生フッただろ。アレ結構有名なんだぜえ、ウチの研究室にも狙ってる男がいたからな」
「付き合う気分じゃなかっただけだ!最近ヘンな目で見てくる男がいるのは、そーゆー噂があったからか…」
「はは、まあ上手いことかわすんだな。…っとやべえ、もうすぐ閉館じゃねーか。邪魔して悪かったな」
 言われて時計を見る。確かに針は18時45分を指していた。もうすぐ司書が見回りに来る筈だ。
「こっちこそごめん。先生何もできなかっただろ」
「また来るさ。急ぎじゃないし、構わねえよ。それよりエルリック、今度ウチの研究室遊びに来いよ。薬学関連でいいならシンの医学書もいくつかある」
「マジで?行く行く!いつならいい?」
「水金の3時以降ならいつでも。あ、やべこれから人と会うんだ、先行くな」
「おう。色々ありがと!」
「いーってことよ。そんじゃ」
 またな、と言ってリードは立ち上がる。歩き始めてから思い出したように振り返って、にたりと笑った。


「マスタングによろしく」







 ちくしょう。エドワードは小さく呟く。
 きっと、今夜見るのは彼の夢。