面白くない。全くもって、面白くない。

 エドワードの部屋の本棚の傍に座りこんで、明日の講義のテキストを眺めながらニコラスは腹を立てていた。無論、テキストの内容にではない。同じ部屋のベッドに寝転がる男、つまり、リンに対してだ。彼は、机に向かって何やら書き殴っている部屋の主の背中に話しかけている。
 正直なところ、ニコラスは彼のことをあまり快くは思えない。それは彼が来る度エドワードを独占することへの嫉妬などではなくて(大体、二十歳を過ぎた男がそれを言うのは寒過ぎる)、彼があまりに自らのことを語らないからだ。
 ニコラスが知るリン・ヤオという人物は、自称エドワードの親友で、シン国のいいとこのおぼっちゃんで、エドワードと同い年の割に老け顔で、学生なのか働いているのかも不明で、胡散臭い笑みをいつでも浮かべている男。ただそれだけだ。


「そういえバ、ジャクリーンの引っ越しは終わったのカ?」
「いや、来月の予定だよ。車イスだからな、生活しやすいトコ見つけんのが大変らしい。ケイトさんが走り回って探してるって」
「…メガネ?」
「メガネ。」
「アー…。エリザベスさんハ?」
「あの人が動くと上司にバレるだろ。俺の都合で悪いけどさ」
「全くだナ」
「うっせ」


 まただ。
 知らない固有名詞の連続にニコラスはひっそりと息を吐く。
 リンを好きになれないのは彼の秘密主義のせいと、それからもうひとつ、彼が、彼を、過去と未来に連れ去ってしまうからだ。
 彼らが共に死線を彷徨う戦いをしたことをぼんやりと知っている。エドワードが望む未来をリンが把握していることもわかっている。エドワードの「知り合い」が誰なのか、どんな関係なのか、リンがすべて知っていることも承知の上だ。
 話してくれ、と言いたいのではない。きっと自分には理解できないことも、理解しない方が良いこともあるのだろう。それはエドワードの態度を見ていれば察することができる。

 けど、でもさあエド。
 そんなに過去を懐かしむな。
 そんなに未来を希うな。
 おまえは俺たちの傍で、一緒に今を生きてるんじゃないのかよ。


「ところデ、ココの病院ってウチの国と物資の取引トカあるカ?」
「シンと?いや、聞いたことねーけど。なんで?」
「キム家の奴らが病院の人間と話してるのを見かけたんダ」
「道聞いてたとかじゃなくて?あ、行き倒れてたんじゃねーの、どっかの皇子みたいに。お国柄だろ」
「オマエナ…。まあイイ、今度奴らを見かけたら教えてくレ」
「や、顔知らないし。ちょっとみただけじゃシンの人間かもわかんねえし」
「…ア」
「…おまえ、けっこー馬鹿だろ?」
「やかましイ」


 なあエド、おまえは今どこにいる?俺たちと同じところにいる?
 おまえの目には俺たちと同じ景色が映ってる?

 たかだか数年じゃないか。学生時代なんてあっという間だ。
 おまえの人生のほんの数年を俺たちと一緒に過ごそうと、おまえはそう思ってはくれないんだろうか。


「やー、シンのおぼっちゃまも大したことねーな。あの国の将来が心配だ」
「それ以上言うト、机の一番上の引き出しの秘密をジャクリーンにバラス」
「…は?…え?」
「黒いピアスと万年筆。イイ趣味してるな奴ハ」
「ちょ、おまえ勝手に開けたのか!」
「見られたくないものは鍵の掛かるトコロに閉まっておけヨ」
「サイッアク…!!」


 ニコラスにはわからない遣り取りを続ける二人の声を聞きながら、そっとテキストに顔を埋める。
 
 同じ部屋の中にいても、
 声が届く距離にいても、
 どうしようもなくおまえは遠いよエドワード。