前代未聞の珍事だと、人は言う。
「だーっ、もう!どーしてあんなにアタマ固ぇんだあのジジイ共!」
「頼むから誰に聞かれるかわからないとこでそんなこと言うな」
セントラル医大、本棟2階の廊下を歩きながら怒鳴り散らすエドワードに、アレックスは宥めるように言う。
「だってさあ、もう4回目だぜ!?この話すんの。俺がここに残る気はないって、何遍言えばわかるんだよ」
「それだけ期待されてるんだろ」
「ちっとも嬉しくねえ!」
ことの始まりは半年前に遡る。学年首席のエドワードと、彼の編入以来次席を保ち続けているアレックスのところに、卒業後も大学に残って研究員となることについて教授陣からの打診があったのだ。それは形こそ打診であるものの、殆ど決定事項といってよい。この大学では毎年そうやってトップの数人が研究員になることが慣習である。
勿論アレックスは快諾した。来るべきものがきた、とさえ思った。もとよりそのつもりで在学していたのだ。だから当然エドワードも承諾するのだろうと思っていたのだけれど、あろうことか彼は否と即答した。あの時の教授の唖然とした顔に笑いを堪えていたことは秘密であるが。
とにかく、前例のないことなのだ。そう言って教授陣は再三彼を説得しているが、エドワードは頑として聞き入れない。もっとも、アレックスに言わせれば説得の仕方に問題がある。前代未聞なんて言葉はエドワードにとって称賛になりこそすれ、詰責になるはずがない。彼を説得したいのなら、正直に彼が欲しいのだと伝えるのが一番であるのだ。
「エド、おまえ本当に残らないのか?」
「アレクまで何言うんだよ、俺にはやりたいことがあるんだってば」
「だから、それが何なのか教えろって。それを言わないからいつまでも教授に呼び出されるんだろ。俺だってフォローのしようがないし」
「うー、それはわかってるんだけどさあ…」
言い淀むエドワードに、珍しいものを見たとアレックスは瞬く。エドワードが、本気で困っている。
「おまえでも困ることってあるのか…」
「なんだよソレ、俺はどーゆー認識されてんだ」
「いや、ノーコメントで」
「いいけどさ…。つーか、なんだ、やりたいことははっきりしてるんだよ俺は。ただ、まだ相手の了承を取ってないから他人に言う訳にはいかないっていうか」
「行きたい病院があるってことか?」
「うーん、まあ、そんな感じ」
「言うだけ言ってみればいいだろ。それで駄目だったら残るとか」
「…おまえ、やたらと残ること推すな」
「そりゃ、まあ。俺は残るからな。おまえがいた方が面白いだろ」
「さいですか…」
できるだけ軽い調子で告げたけれど、それは紛れもない本心だ。エドワードには大学に残ってもらいたい。
エドワード・エルリックという人間は、アレックスが初めて出会った天才だ。己が学業に秀でていると自負しているアレックスが、完膚なきまでに打ちのめされた天才だ。出会った当初はひどく羨んだし、今もその気持ちが消えたとは言えないけれど、彼の才能を快く思う気持ちが生まれていることも嘘ではない。
憎めない人間なのだ。生まれ持った天賦の才能を惜しげもなく酷使して、鼻に掛けることはないが、確たる矜持を持っている。自惚れが過ぎる人間ほど面倒なものはないが、清廉潔白な人間も逆に胡散臭い。彼はそのどちらでもなくて、だからこそ付き合いやすい。その上馬鹿みたいにすぐ人を信用するから、隣で見張ってやらなくてはと、そう思ってしまうのだ。
この稀有な天才の傍で学べることをアレックスは幸運に思っているし、今後もそうやって共に研究を続けて行けたらどんなに良いだろうかと思っていた。教授が納得しないなんて口では言っているけれど、何のことはない、きちんとした理由が欲しいのはアレックス自身なのだ。
「うーん…。やっぱ、教授にはまだ言えないけどおまえには言っとくよ。でもさー、笑ったり怒ったり、あと深く突っ込んだりすんなよ?」
「そうされそうな所なのか?」
うーん、とエドワードは再び唸る。それからぽつりと呟いた。
「…軍医に、なりたいんだ」
「…そうか」
何故と思うのが3割、矢張りと納得するのが7割。人を救うために医者を志す人間が何故軍になど入りたがるのかと訝しむ気持ちはあるけれど、自分は軍という存在が彼の心に大きな割合を占めていることも知っているからだ。
エドワードが少年時代を過ごした軍という組織は多分、自分が聞き知っているものとも、想像しているものとも違うのだろうと思う。何故なら彼はいつも過去を懐かしむとき、途方もなく優しい顔をする。
「なあ、エド」
「ん?」
「おまえの帰りたい軍には、何があるんだ?」
「…なにって…」
「違うか。何がじゃない、誰がいるんだ?」
エドワードは小さく息を呑んだ。それから隣を歩くアレックスを見ずに、前を向いたまま答える。
「一生を掛けなきゃ、恩を返せないような人がいる」
そう言ってからエドワードは、いや、違うな、と小さく首を振った。
「恩を返すのに、一生を掛けてもいいと思える人がいる」
馬鹿だなおまえ。それは熱烈な愛の告白だ。
そう心の中だけで呟いて、アレックスは小さく嘆息する。そんなことを言われたら、残ってくれなんて到底言えるわけがない。
「…まあ、頑張れ」
適当過ぎると文句を述べるエドワードに、アレックスは笑って返した。
隣にいてくれなんて贅沢なことは言わないけれど、
未来のおまえが過去を懐かしむとき、そこに俺たちの姿が在って欲しい。