グレッグミンスター、英雄の間。
セネカとアンダルクの墓には国境を越えて真っ先に向かった。それが無事に残っていることに安堵して、今はトラン共和国の中心部を訪れている。城跡に建てられた中央官庁のその部屋で、キリルは書物の頁を捲っていた。数ヶ月前に終焉した解放戦争について、最も詳しく記されたものであると入れ違った女性から聞いたのだ。
フェン・マクドール。トランの英雄と崇められた少年。
再び星が集ったのだろうと、キリルはそう思った。150年前の旧友と、10年程前の南国の王子と同じように。
皇帝の臣下でありながら乱世を憂い、反旗を翻し、将軍たる父を超えて主君を弑したのだと。新たな国を打ち立てて民を救ったのだと。この書物を記した人はおそらく少年を直に知る人物だったのだろう、その経緯は華々しく語られていても、行間からは哀しみが滲み出ていた。
ありがとう。胸の裡でそう呟いて、キリルは少年の名をそっと指先でなぞった。彼に送る言葉をそれ以外に思い付けなかったのだ。
「兄さん、随分熱心だな」
声に振り向いて入口を見遣ると、開きっぱなしの扉の背に凭れかかった少年が、キーチェーンを指先でくるくると回しながらこちらを見ていた。施錠の時間かと、慌てて立ち上がる。
「ごめんね、係の人?」
「いや、ちょっと色々あって、今日だけ代理。もうちょっと居たいってんならそれでも構わないけど?」
「え、悪いよそんな」
「いーっていーって。どうせこの部屋はしょっちゅうそういうことがあるんだから。兄さん、何を知りたいわけ?何なら俺が話してやろうか?」
「え……」
この少年も戦争に参加した人間なのだろうか。ならばそれは魅力的な誘いだった。キリルは少し迷って、ひとつの問いを投げかけた。
「この子は今、幸せに生きてるかな…?」
その言葉に蜂蜜色の髪をした少年は少し驚いて、それから榛色の瞳を柔らかく緩めた。部屋の扉を内側からパタンと閉じて、近くの椅子に腰掛ける。
「野郎にゃ普通ここまでしてやんないんだけど。兄さん、聞きたいこと全部聞いていいぜ」
答えられることなら答えてやる、そう言った少年に勧められて、キリルは再び腰を下ろした。
***
「君は、国で働いてるのかな?」
「んー、まあ当たらずとも遠からず。親が要職に就いててね、俺自身参戦してた人間だから、多少の意見を聞いてもらったり融通利かせてもらったりはしてるかな」
「そう……」
ならば親が余程の要職か、少年が認められているか、どちらかなのだろうと思った。両方かもしれない。少し話しただけで、少年が空気の読み方に長けていることに気が付いた。己が若い頃には出来なかった芸当だ。
「兄さん、あんたは赤月出身?戦争中はここにいなかったのか?」
「うん、随分幼いころに赤月を離れてね。しばらく帰ってなかったんだけど、赤月が滅んだって聞いて…。国が哀しいことになってないといいな、と思って戻ってきてみたんだけど……」
「どう思った?」
「……国が哀しいことになったから、彼がそれを壊してくれたんだね」
キリルは壁に掛かったレプリカの棍を見遣った。そのまま言葉を続ける。
「彼を、きちんと泣かせてくれる人はいた?」
「……あいつは意地でも泣かなかったけど、泣きたいときにずっと隣にいてくれる奴はいたよ」
「そっか、よかった……」
何も言ってくれなくても、体温を与えてもらうだけで感じる安堵があることを、キリルは身に染みて知っている。
穏やかに微笑んだキリルを、少年は面白そうに見詰めて言った。
「俺、結構フラフラしてるから色んな人の話聞く機会あるんだけどさ。あんたみたいなことを聞いてきた人、初めてだぜ」
「そう?うーん……。良く似た人を知っているから、かな」
「良く似た人?」
「うん、決して逃げなかった人を知っている。とても強くて、少し、淋しいひと」
「……その人は今、元気?」
「こっちが呆れるくらいにね。もの凄く逞しく生きてるよ」
「そっか」
蜂蜜色の少年は嬉しそうに笑った。英雄と呼ばれる少年に彼のような友人がいることが、キリルも嬉しくて小さく微笑んだ。
***
「長いことここを離れてた僕が言える台詞じゃないんだけど…。この国を、大事に育ててね」
少年自身がこの国において何かしらの役目をもっているのだろう。これまでの会話で、キリルはそう悟っていた。少年も言葉の意図に気が付いて、バレてやんの、と舌を出す。
「まあ、任せとけ。トランに少なくとも300年の平和をつくることが俺の目標だから」
「300年?えらく立派な目標だけど、なんでまた?」
「うーん、そりゃ、ライバル意識ってヤツかなあ」
「そう……」
意味はわからなかったが、ありがたいことだと思った。150年前にあの国が滅んだあと、土台を失った人々が困惑する様を、キリルは直に見ていたからだ。
あの頃も、今も、キリルには己の目的を追うことしかできないけれど。ただ見ているだけの自分が期待を寄せるのはおこがましいことだと思うけれど。
それでも願うことだけは、己にも許されると思うのだ。
「……君が彼に会ったら、ありがとう、って伝えてくれるかな」
少年は静かに、それでも嬉しそうに笑んだ。こちらまで温かくなるような笑みだった。
「こっちこそ、サンキュ。その言葉で、あいつは少しでも救われる」
キリルはもう一度紙の上の名前をなぞって、そっと書物を閉じた。
夜明けのこの国と、祖国を救った少年が、どうか、どうか、幸せでいられますように。