「おや、お久しぶりですね」
 仕事からの帰り道、ふと珍しい人物を見かけてイスカスは立ち止まった。己にとって昔の職場の最高雇用者の息子という微妙なポジションにある彼は、しばしばGUNTOにも顔を出しているようだが、幸運なことにイスカスは社内で出会ったことはない。
 声を掛けられて立ち止まったササライは、首を捻ってから、ああ、と頷いた。その失礼な間は積極的に見なかったことにした。因みにこれまで彼と会った回数は両手の指でも数えきれないほどである。
「こんばんは、イスカ……じゃなかった、ええと、眼鏡の」
「何故言い直したのです。私は眼鏡など掛けておりません。どこぞの眼鏡と一緒にはしてほしくないですね」
「嫌だなあ、お宅の企業と社員の総称でしょう?積極的にそう呼ぶよう、最近条項に追加されたんですよ」
「本当に碌な条項がありませんね……!」
 少々の懐かしさを感じながらイスカスはそう口にする。ヒクサクを崇め、ヒクサクを讃え、ヒクサクの言葉を信じ、ヒクサクのライブでサイリウムを振る、そんな社風に染まれなかったことが己の転職の理由のひとつである。男なら夢は一国一城の主だと考えているイスカスにとって、トップが強大である組織は好ましくなかったのだ。ついでに言うならば、男のへそ出しミニスカは無しだとも思った。そんな暴挙が許されるのは魚人くらいだ。
「で、クーデターはいつ起こすんですか?」
「あなたには遠慮というものがないのですか。……失礼、あるはずがありませんでしたね」
「そっちの方が失礼だと思うけど……。まあそれはいいとして、キリルさんって結構社員に人気なんでしょう?あなたに政権交代が起こせるとは思えないなあ」
「……今はまだ、雌伏の時なのですよ。まずはキリルくんの結婚を待たなくては」
「あはは、気の長い話ですね」
 その台詞はイスカスよりもキリルに失礼である。しかしササライに非礼を指摘するような無駄な真似をする気はなかったので、イスカスは華麗に無視をした。この話が通りすがりのアルベルトからシーザーとトーマス経由でキリルに伝わったとしても、己に非はない。
「そもそもウォルター社長の時代に転職したはずなのに、なんでそのころを狙わなかったんですか?」
 あの頃なら余裕だったはずじゃあ、なんて更に失礼さを増すササライを通り過ぎていくアルベルトがちらりと振り返ったが、やはりイスカスは見ない振りをする。キリルが胃炎に悩まされるような事態は、どちらかといえば歓迎である。
「……山羊は対象外なのですよ」
「魚人はオッケーなのに?」
「山羊と魚人はまったく違うでしょう!あなたにはあのヒレの心地良い弾力性がわからないのですか!?」
「うん、僕はユーバーじゃないからね」
「ふ、スーツに恋をする愚か者と一緒にしないで頂きたい。私が愛するのは魚人スーツではない、魚人スーツをも含めた魚人全体なのです……!」
「はは、僕から見ればどちらも等しく愚か者だけどね」
 その平等性はいらない、とイスカスは思った。次にヒクサクに会う機会があったら子育て方法について詳しく聞いておこう、とも思う。『やってはいけない!子供の育て方』という本を売りだしたらベストセラーになるのではないだろうか。
「そのようなことを言っていられるのも今のうちですよ。ハルモニア学園初等部の遠足先がGUNTOウーオランドになる日も遠くありません。私はたとえ魚人になろうとも、己の野望を達成致します……!」
「ふうん、キリルさんに三倍ダメージで叩き斬られないようにね」
 忘れ物で戻ってきたアルベルトが更に胡乱な視線を投げかけてきたことには気付かない振りをして、イスカスは新バージョンの魚人マスコットを握りしめ、その拳を高らかに掲げたのだった。





魚人のへそって、どこだろう。