冬の夜の寒さに、体がぶるりと震える。
 レックさまがいないのです、とセラに呼ばれたのがついさっき。寝ようとしていたルックは、仕方なく寝間着にフリースを羽織ってビルの屋上へと続く階段をのぼっていた。
 レックナートは時折、夜中にふらりと屋上へ上がる。その習慣はルックもセラもよく知っていて、だからセラが本当に恐れているのは師の不在などではなく、彼女がひとりきりで夜空を見上げていることなのだ。
 ルックは扉の前で立ち止まり、少し迷ってからコンコンと2回ノックした。間抜けな構図だと思いながら返事は待たずにドアノブを握る。途端に流れ込んできた冷たい外気に小さくくしゃみをした。
「……風邪引きますよ、レックナートさま」
「そのときは、お粥が食べたいですね。梅干をのせてください」
「……僕はリクエストを聞いているのではなく、風邪を引かないようにしてほしいと言っているんですが」
「あら、そうでしたか」
 それは失礼しました、なんてとぼけた答えを返しながらもレックナートは空を仰いだままだった。つられてルックも夜空を眺めてみたけれど、何の変哲もない、晴れた冬の空だ。
 ルックがこうやって師を迎えにくるのは初めてではない。慣れているからこそ、彼女がまだ戻る気がないことにも気付いていた。長くなりそうだな、と思いながら寒さに震えてその場に座り込む。両腕で膝を抱え込み、はあ、と吐き出した白い息の行方を追う。
 きっと室内ではセラが温かいスープを作って二人を待っているだろう。そして戻ったら一晩中、ルックはたわいないお喋りを続ける女性陣に付き合わされるのだ、明日も朝から仕事があるにも関わらず。それがいつものパターンだった。
 まあ、レックナートの憂いやセラの不安がそれで薄まるのなら、別に良いのだけれど。
 明日はオペがない。それが救いだな、と考えながらくわりとあくびを噛み殺した。今寝たら凍死する、と目を擦れば、ゆっくりとレックナートが振り向いた。
「ルック」
「なんです?」
「ご覧なさい」
 なにを、と思いながら彼女の白い指が示す先を目で追いかける。その瞬間、一筋のひかりが夜空をすうっと横切って、寝静まった街中に溶けてゆく。
「……流れ星がどうかしましたか」
「時が、来たということです」
「……何の」
 応えはなかった。師はもう一度、時が来たのです、と独り言のように呟いた。
 そうやって、いつだって彼女はひとりで納得してしまうのだ。なにもかもわかっているかのような顔をして。
 師のその表情を見る度に思い出す言葉があった。父は誰をも理解できないのだという、かつて彼女が告げた言葉が。それは真実であろう、父は己のことのみならず、あの兄のことですら理解していないのだから。
 だが、ならば、とルックは問いたい。あなたは理解できるのですか、と。
 あなたは父を理解できるのですか、と。
「……レックナートさま」
「どうしました?」
「…………いえ」
 けれどそのひとことを、いつもルックは言葉にすることができないのだ。問えない理由をはっきりさせることを厭うたまま、今日もルックは口を噤む。
「戻りましょうか、ルック。セラが待ちくたびれているでしょう」
 そう言ってレックナートはゆっくりと歩を進めた。はい、と答えたルックは彼女のために扉を開けてやって、それから夜空の下で眠る街を振り返る。
 夜の街は静かだった。張り詰めた空気の冷たさに、ルックはひとつ、瞬いた。




レックさまが待ってたのは魚人カフェのオープン日とかそんなオチ。