既に夜闇は深い。寝苦しい暑さに目を覚ましたフレアは、テントの外から聞こえる微かな人の声に気が付いて、隣で眠るミレイを起こさないよう気遣いながらそっと顔を覗かせた。
「……じゃあ、そういうことでお願いします、クープさん」
「うん、わかったよ。……色々あったのに、ありがとう」
じゃあね、おやすみ。そう言ってクープが立ち去る後ろ姿をキリルが眺めていた。話し声はこの二人のものであったらしい。
自分のテントに戻ろうとしたのだろうか、キリルがくるりと振り向いた。そしてフレアの姿を認めると、驚いた表情を露わにする。
「フレアさん?どうしたんですか、こんな時間に」
「それは私の台詞よ。何かあったの?」
「いえ……。ハインズさんの、遺品を。全部終わったら、クープさんに持って帰ってもらおうと思って」
だから、僕が預かっていた物を渡したんです。キリルはそう穏やかに告げた。
ハインズと離別し、その直後に彼が亡くなったのは数日前の出来事だ。正直なところ、フレアにとって彼の離反は予想していたものだったが、この目の前の青年がショックを受けていたのを仲間たちは皆覚えている。
だから、少しだけ意外だった。彼が今、穏やかな表情をしていることが。
「……キリル、もう寝るところかしら?」
「うーん、目が覚めちゃってるから……。今日の不寝番がセネカとレイなんで、混じってこようかと思ってます」
「そう。なら、私と少し話さない?私も暑くて眠れる気分じゃないの」
するとキリルはきょとんとしてフレアを見つめた。意外な申し出だったのだろう、キリルとフレアが二人で話をすることはそう多くない。
「……お相手が僕で良いなら、よろこんで」
キリルはやっぱり穏やかに笑んだ。フレアが一番見慣れた表情だった。
「……騙されていたこと、悔しくはないの?」
海が見えない風景に違和感を覚えながら、テントから離れた大木に背を預けて座り込んだ。同じ木に凭れたキリルにそう尋ねる。
「まったく悔しくないと言ったら嘘になるけれど……」
キリルは少し考えるように空を見上げた。雲の切れ間から月が見え隠れしている。
「あの人はあれでも、父さんのことを案じてくれていたんじゃないかと思うんです。ヨーンには随分ひどいことを言っていたけど、それが彼の常識だったんだろうなって。彼にとってヨーンは恐ろしい魔物で…。同僚として…もしかしたら友人として、父さんがヨーンと一緒に暮らしていることを心配していたんじゃないかと思うんです」
それは随分と優しい解釈だとフレアは思った。きっと事実とは異なるだろうと。
……けれど、そうであれば良いとも思った。
「ねえ、フレアさん」
「なにかしら?」
「フレアさんも知っての通り僕は騙されやすいし、こうしてひとつの国の軍事機密を追ってる今、それではまずいとわかっているんだけど……」
キリルは困ったように笑いながらも、はっきりと言葉を続けた。
「それでも僕は、人に騙されることよりも、信じなかったことを後悔するほうがよっぽど嫌なんです」
ああ、そうか。妙に納得する自分をフレアは感じていた。リーダーとして仰ぐには少し頼りないこの青年を、どうして誰も見限らないのか、どうして誰もが好ましいと慕うのか、わかった気がした。
人は嘘を吐く。駆け引きをする。時には腹を探り合うことだって必要だ。
だけどそれでも本当は、誰だって自分を信じて欲しいのだ。
ふふ、と小さくフレアは笑った。不思議そうにキリルが首を傾げる。
「ねえキリル、レイと仲良くしてやってね」
「え?はあ、まあ……。うっかり協力攻撃しちゃう程度には親しいですよ……?」
やさしい思い出をひとつでも多く増やしてあげてほしいと思った。いつか群島を旅立つ彼に。世界の終わりまで生きることを決めた彼に。英雄の名も紋章の呪いも関係なく、ただの親しい友人としてのやさしい思い出を。
きょとんとしたキリルの顔をフレアが覗き込むと、彼は金色の瞳を瞬かせてからふわりと笑んだ。
「良い友人でありたいと思ってます。彼は人を楽にさせるのが上手いから、ついつい甘えてしまうけれど」
そう告げた青年の頭を撫でてやると、子供扱いしないでくださいよと苦笑された。だって4つも年下だもの、そう返すとキリルはもう一度苦笑した。その言い方、セネカみたいです。それから二人で子供のように笑う。
ねえレイ、
いつかあなたが世界の果てまで旅をしても、世界の終わりまで生きぬいても、
どれだけこの海から遠ざかってしまっても、
あなたを慕う仲間が、あなたを信じる友人が、あなたを想う家族がこの海にいたことを、
どうか、どうか、忘れないでいてほしい。
わたしたちはいつだって、あなたの幸せを願っている。
わたしたちはいつだって、あなたを存在ごと愛している。