こつん、と。上りきった階段の上、扉の前で少女は立ち止まった。
 少女が過ごす塔は地上から高く聳え、彼女以外の人間は滅多に訪れることがない。だからこそ気楽でもあるその室内に、人の気配を感じたのだ。
 ギイ、と立てつけの悪い扉をゆるやかに開ける。見慣れない色彩に、少女はそっと目を細めた。
「……珍しいですね。軍師殿がこんなところにいらっしゃるなど」
「まあな。……というか、おまえテレポート使えるんじゃなかったのか。なんでわざわざ上ってきたんだ」
「健康に良いですから」
「…………」
「なにか御用ですか」
 言いながら、そうではないのだろう、と少女は思う。宿星戦争は既に終わった。城は戦勝の宴で華やいでいるし、星はじきにこの地から離れるだろう。ならば彼が己を必要とすることも、もはやない筈だ。
「いや。ここからならば、よく見えるかと思ってな」
 そう告げて男が窓を開けると、夏の夜の気だるい空気が流れ込んできた。彼が見詰める先に、彼が見詰めようとしたものはもう、ない。けれど、それを悟ることならば容易にできた。
 ――天魁の星は、既に役目を終えたのだ。
「よろしかったのですか」
「……おまえ、矢張り電波か」
 なにが矢張りなんだろう、と少女は思えど問いはしない。他人による己への評価にはまるで関心がなかった。
 答えない少女を横目に、男は緩く息を吐く。
「…………まあ良い。それに、奴がトンズラするのはわかりきっていたことだ。今更止めるようなことでもない」
 男は窓枠に腰掛ける。少女は石板に近付いて、星の名を中指でそっと撫でた。
「そうですか。……そして、貴方が英雄の名を継ぐと?」
「この地には未だ、それが必要だからな」
「民には英雄など要らぬでしょう」
「国には英雄が要るものだ。……不満気だな」
「いいえ。……不満なのではありません。ただ、想っているだけです、紋章の意思を」
「――ほう?」
 男は愉快そうに語尾を上げた。夜風がするりと通り過ぎる。
「紋章の意思? そんなものが本当にあるとしたら……」
「あると、したら?」
「くだらんな」
 そう、男は一蹴した。
「そんなものは要らん。たかが、紋章だろう。あんな輪っかに何ができると?」
「望むことができます。円は、永遠の秩序を」
「望むだけで叶うなら人など要るまい」
「……人と同じです。紋章は願い続けます。それが彼らの、理です」
「は。『彼ら』と呼ぶのか、おまえはあれを」
 男は外を仰ぎ、間を開けてから言葉を紡ぐ。
「おまえが如何考えていようと構わないがな。私は円の紋章を利用するつもりはあっても、あれに国をくれてやる気などない。人を治めるべきは人だ。ついでに言えば、私だ」
「……傲慢ですね」
「知らんのか。傲慢でなければ軍師など務まらん」
「…………知っています」
 知っていた。男の傲慢さを、少女はきちんと理解していた。だからこそ相応しいと思ったのだ。
 ……円、などという、ひどく傲慢な紋章に。
 法を体現し、秩序を望み、停滞をもたらすのだと云う。安定を保ち、安寧を与え、不変を愛するのだと云う。そんな円の在り方は、とても傲慢で…………そして、ひどく、不器用だ。
「……貴方に」
「あ?」
 男は振り向いた。深い色をした瞳を真っ直ぐに見据えて、少女は厳かに言葉を紡ぐ。戦争は終わり、星は離れる。ならばこれが、天機の星を全うした男に、天間の星たる己が贈ることができる最大で最後の賛辞だ。

「…………円の紋章の祝福を」







 ……理解してなど、いなかったのだ。
「久しいな、レックナート」
「…………ヒクサク」
 己はまるで理解してなどいなかったのだ、この男の、傲慢さを。

 ハルモニア神聖国建設から70年。レックナートの世界から、光が消えた瞬間だった。