雪の降る夕方。スーパーからの帰り道、レックナートの屋敷が見えてきた辺りでルックは見知った人影を見つけた。相手はルックに気が付くと、あっちゃあ、という表情を露わにする。彼の左腕から滴る血が雪で真っ白な地面を赤く染めるのを見て、ひとんちの前で何してくれてるんだ、とルックは思った。放り出すわけにもいかなくて仕方なく部屋にあげ、今に至る。
「馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど……馬鹿じゃないの」
「うるせえよ」
 久し振りに会った男は社会人になっていた。勤め先はウォルターとかいうヒクサクの知人が社長をしている会社だ。それ自体は特筆すべきことではないが、よりにもよって情報システム課なんぞに配属されているという。エアコンさえまともに使えずに扇風機で暑さに耐えていたような男がだ。
「赤月に勤めなかったのはIT関連を避けたかったからでしょ。何してんのさ」
「テオさまは面倒見てくれるって言ってくれたけどな、そこまで頼れねえよ。それに、GUNTOには借りがあるし」
「借り?」
「そ。ま、おまえには関係ねえよ、ガキんちょ」
「あっそ。別にどうだっていいよ、じーさま」
 服を脱がせた左腕に景気良く消毒液をぶちまけてやれば、テッドはあからさまに表情を歪めた。ルックはそれに溜飲を下げて処置を続ける。
 レックナートのもとに来てから例の定期的な家出はしなくなった。もう何年行ってないんだっけ、数え始めてやっぱりやめる。その年数が何になるというのだ。ルックは高校を卒業したし、テッドは似合わないスーツなんかを着るようになった。互いの見慣れない姿が距離感をそのまま表している。
「医大生なんだって、おまえ」
「……フェンから聞いたの」
「まあな。なんでまた」
「別に。それに医大生って言っても大学に行ってる時間よりヒクサクの個別指導受けてる時間の方が長いし。それで単位が来るんだから碌でもない特別扱いだよね」
「おまえがそれを選んだんだろ」
「だから、なに?」
 患部にガーゼを当てて包帯をくるくると巻きながら見上げれば、はあ、と面倒臭そうに溜息を吐かれた。
「べっつにー。なあ、ついでにメシ食わせろよ。一人分増えるくらい、たいして変わんないだろ」
「やだ」
「今から帰って支度すんのめんどいんだよ。いいだろ」
 当たり前のようにそう言う男に苛立った。一生のお願い、とかなんとか、フェン相手になら連発するその台詞を己に言ったことなどただの一度もないくせに。
「……医者しかなかっただけだよ」
「は?」
「教師にも薬剤師にもなる気はなかったしね。宗教関係はもっとごめんだ」
 久しく訪れていないテッドの部屋を思い浮かべた。社会人になった今も、あの狭いワンルームに一人で暮らしているのだろうか。一年中付けっぱなしになっていた風鈴が、ちりんと寒々しく耳元で囁いたような気がした。


***


 馬鹿はおまえだ、と言い返しはしなかった。
 背が伸びていた。顔のつくりは今でも幼くて、じきに二十歳だというのに中学生でも通用するのではないかと思う。童顔の家系なんだよ、鬱陶しげに言っていたことがあるのを思い出した。
「大体なんで血流して歩いてたわけ」
「不良っぽい中坊に絡まれたんだよ。逃げ切ったつもりだったんだけど最後にちっとばかし切られたんだな」
「……オヤジ狩り?」
「シバくぞてめえ」
 軽口を叩きながらもルックの手際は良かった。昔から手先の器用な子供だったな、とテッドは思う。
 きっと腕の良い医者になれるだろう。けれどハルモニアに全く関係のない世界に出ていくことだってできただろうに。医者とか教師だとか、そういう選択肢しか出てこないことが父親に囚われている証拠でしかない。
 未だ背中を追い掛けてんのか、言えば半裸のまま外に放り出されることはわかっていたから口を噤む。雪は降りやまず、テッドに被虐趣味はない。
「終わったけど」
 その声に思考から浮上し、服を着ようと手に取った。しかし当然ながら、ワイシャツは真っ赤である。う、とテッドは口籠った。血の染みたシャツは捨てるにしても、切られたスーツとコートはそういう訳にもいかない。簡単に買い直せるほどテッドの懐は暖かくないのだ。逡巡の末に神妙に差し出せば、ルックはもの凄く嫌そうな顔をしながらも裁縫箱を取り出した。
「夕飯はあんたが作りなよ」
「へいへい。サバイバル料理でも文句言うなよ」
「……レックナートさまの口に合うなら」
「おまえの師匠の好みなんぞ俺が知るか」
 ぼすりと布の塊を投げつけられた。広げてみれば、ルックの高校時代のものとおぼしきカッターシャツだ。少々小さそうだが着れないことはないだろう、もともとテッドも小柄な方である。
「あんたのサイズなんて知らないけど、素肌スーツよりマシでしょ。返さなくて良いから」
「サンキュ」
 意外に面倒見が良い。テッドは小さく苦笑する。
 知らないことが増えたな、と思う。しかしそれはきっと当たり前のことなのだろう。開き直った彼と大人になった自分の間には、接点など驚くほど少ない。
「……なんで医者なんだ」
 気付けば再び問うていた。ルックは気だるげに振り向いて溜息を吐く。初めて見る表情だ。
「……死霊ってのも気が滅入るけど」
「けど?」
「…………テッド、僕は、生霊ってものが、とてもおっかない」
 なんでそういうことを最初に言わねえの、心の中で呟いた。相変わらず彼のプライドはチョモランマのように高い。彼がまだテッドの家に来ていた頃にそれを言ってくれれば、もっと早く選ぶ将来を応援してやれたのに。
「……そっか」
「……なにその得意げな顔。むかつくんだけど」
「いやいやべっつにー。今度成人祝いやろうか、もうすぐだろ」
「はあ?何なの急に。きもちわるい」
「口の減らねえガキだなほんと。何が欲しいんだよ」
「何って……。じゃあ、風鈴」
「は?」
 風鈴っておまえ。問い詰めようとすればルックは二度と言わぬとばかりに黙々と針仕事に取り組みだした。風鈴なあ、呟いてテッドは自分の部屋に飾りっぱなしのそれを思い出す。
 雪景色に映えるかもしれない。テッドはこっそりと口元に笑みを落とした。




このあとレック様にシチューの駄目出しをくらいます。そしてタイは忘れていくお約束。