赤月帝国が滅びたらしい。そう聞いたのは、数年振りに偶然再会した友人と船に乗っていた時のことだ。
 国ひとつ滅ぶ話はそう珍しいことでもない。強大な国家のイメージがある国だったから多少意外に思ったものの、レイにとって、それはとりたてて重要な出来事ではなかった。
 しかし百年越しの友人にとっては故郷である。とりあえず見てくる、そういって彼が素っ飛んで行ったのが一月前。約束なんてしなかったけれど、彼がまた戻ってくるような気がしたので、レイは群島で待とうと思っていた。今乗っているのはナ・ナル島行きの船である。
 海の色が深くなる。オベル近海から北へ向かうと移り変わる海の色がレイは好きだ。
 もうしばらくすれば到着するだろう。甲板で海を撫ぜた風の冷たさを心地良く味わっていると、ふと、空気が揺らぐ。思わず目を凝らして虚空を見詰めると、瞬間、人が降ってきた。否、湧いて出た。

「……間違えた」

 唐突に現れた少年はまじまじとこちらの顔を眺め、溜息を吐くとくるりと緑の法衣を翻して背を向けた。大概失礼である。彼の細い腕を右手で捕らえて強く引くと、あからさまに嫌そうな顔をして振り向いた。
「少年。とりあえず、目が合ったら挨拶すべきだと教わらなかったか」
「生憎僕を育ててくれた人は礼儀なんて気にしない方でね」
「それは災難だったな。で、何を間違えたって?」
「人違いをしただけだ。あんたに用はない」
「躾がなってないな。ビッキーの仲間か?」
「……ビッキー?」
 少年は僅かに眉を顰める。それからこちらの顔をもう一度眺め、彼の腕を掴む己の右手を眺め、それから左手に視線を移した。その翠の視線に少々居心地が悪くなる。手袋の下には団長の形見が眠っているからだ。

「……罰か……」

 その声にぱっと身を引き、彼を見据えた。紋章を見もせずに悟られたのは初めてだ。
 少年は緩く首を振る。
「警戒するのは勝手だけど、僕はそんなもの欲しくない。恐れもしないし、吹聴するつもりもない」
「どうして知ってるんだ?」
「わかっただけさ。僕は真の紋章の気配を追って跳んできたし、あんたはビッキーを知っている。それだけならいくつか候補はあるけれど、あんたが庇ったのは左手だ」
「……君は誰?」
 少年は唇の端を持ち上げて冷笑する。既視感が襲った。

「ただの同胞だよ、群島の英雄殿」



***



 港の灯台の手すりに腕を乗せて海を眺める。少年は隣で手すりに腰掛けて同じ方角を向き、緑の法衣を潮風に棚引かせていた。
「じゃあ、君は『風』なのか。誰を探してここに?」
「……月だよ。ちょっとゴタゴタしてたんだけど、本来の所有者に戻ったんじゃないかと思って。だから、ゲテモノ紋章の気配を辿ってきたんだけど、見つかったのはあんただった」
「ゲテモノ……」
 あんまりな言われようだ。けれども腹が立ったわけではないので流して彼に問う。
「君、紋章関係詳しいのか。継承したのはいつだ?」
「……僕はレックナート様の弟子だから」
「レックナート?」
「あんたも会ってるだろう。バランスの執行者だ」
「…………ああ、あの夜這いしに来た人?」
「夜這いって……まあいいけど」
 はぐらかされたな、と思う。継承した時期を隠すことに何の意味があるのかわからないが、聞きだす必要もないので放っておいた。こういう場合、無理に突くと大抵藪蛇になるのだ。長い人生経験で学んだことである。
 けれど一つだけ確かめたいことがあった。「仲間」に会ったら聞いてみようと思っていたことだ。
「君、テッドを知ってる?」
 少年は小さく息を呑んだ。それから彼はボーイソプラノをゆっくりと風に乗せる。

「……あんたが、あいつの天魁星か」



***



 テッドは死んだと、彼は言う。
 そういうこともあるかもしれないと思っていた。けれどそれでも衝撃だった。赤月へと旅立った友人と、テッドだけが、己と同じ時を生きるのだと心の裡で信じていたからだ。
「あいつ、ちゃんと会えたかなあ……」
 独り言のつもりで呟いた。少年の口振りから、彼らが親しかったわけではないだろうと察したのだ。けれども予想に反して、隣からはまともな返事が返ってきた。
「会えたよ。あの爺は親友に自分を殺させないために死んだんだ」
 どの道、長くは持たなかっただろうけど。そう少年は言い捨てて、金茶の髪を風に揺らした。
「やれやれ。状況はさっぱりわからんが、随分とあいつも丸くなったらしい」
「あんたが教えたんだろう」
「…何を?」
 今度は問いかけたのに返事はなかった。少年はただ群島の海を眺めている。
「……今度会ったら、あいつの墓に連れて行ってくれないか」
 今は人を待っているから。そう付け足せば、彼は鬱陶しげに振り向いた。
「嫌だよ、なんで僕がそんなこと。そんなに会いたいなら、アレの次の継承者を探せばいい」
 そろそろ僕は帰る、そう言って彼は右手に魔力を集め始める。
 まだ、いくつか聞きたいことがあった。けれども無理に引きとめることはしなかった。どうせ人生など長い。知るべきことは、いずれ知れるのだ。
 最後に一つだけ、ふと思いついたことを聞いてみた。
「君もだれかの宿星だったんだろう?」
 すると少年は皮肉気な笑みを浮かべてみせた。その表情を見てレイは確信する。
 少年の姿は風に溶けた。風が海に吹き抜けた。
 レイは海を仰いだ。脳裏に浮かぶ、己の天間星に哀悼を捧げる。



 どうか、彼が笑って死ねましたように。