控えめに足音を立ててササライは廊下を歩いていた。立ち止まって挨拶をしてくる患者や職員には笑顔で返し、角を曲がって目的の部屋へと向かう。手に持ったビニール袋がかさりと揺れる。
「……ササライさま」
「セラちゃん、こんにちは。ルックはいる?休日出勤してるんでしょ?」
 外科部長室、とプレートの掛かる部屋の前で立ち止まり、ちょうど隣の部屋から出てきた少女に尋ねてみる。看護専門学校に通っているはずの彼女は、通学の傍らルックの秘書のような仕事をしているのだという。労働基準法とか大丈夫、昔そう尋ねたら、雇っているわけじゃないと弟は答えた。彼女の手の空いた時だけ、やりたいようにやらせているらしい。きみも丸くなったものだねえ、言えば黙れ馬鹿兄貴、なんて罵倒が返った。
「はい、そうですが……。今はおやすみになっていらっしゃいます、働き詰めでしたので」
「え、ここで?」
「ええ。一時間経ったら起こして、と。ですので、あと30分は眠らせて差し上げたいのです」
「そうか、わかったよ。出直して来た方がいいかな?」
「いえ、もしお時間よろしければ、中でどうぞ。ヒクサクさまもいらしてますし」
「ヒクサクさまが?」
 驚いて問えば、少女はこくりと頷いた。つい先ほど、いらしたところです。涼やかな声でそう告げる。
「いいの、ルック寝てるのに僕やヒクサクさまをいれちゃって」
「構いません。貴方がたが傍にいらっしゃっても、ルックさまは目を覚まされませんから」
 わたしがお傍に寄ると、起きてしまわれるのですけれど。少女はそう言って薄い瞼を伏せた。
「……きみは本当にルックが好きなんだね」
「はい。勿論です」
「子育てが得意とは思えないんだけど、あれの何処がそんなにいいのかな?」
 すると少女はゆっくりと、綺麗に綺麗に微笑んだ。それから右手の人差し指を唇の前にぴんと立てて、年相応の弾んだ声で幸せそうに告げるのだ。
「それは、セラとルックさまとレックナートさまだけの秘密です」
 どうして文句など言えようか。ササライは苦笑してドアノブに手を掛けた。



 静かに入室すれば、こちらに背を向けて手前のソファに座っていたヒクサクが鷹揚に振り向く。ササライは頭を下げてからその向かいに腰掛けた。部屋の奥では弟がデスクに突っ伏して眠っている。
「……なにやってるんですかヒクサクさま」
 父の手元にデジタルカメラを見付けてササライは少し腰を引いた。ルックを撮るためであろうが、自分まで巻き込まれてはかなわない。弟と違って写真を撮られること自体に抵抗はないけれど、父は人が気を抜いた一瞬を撮るのが好きなのだ。碌なもの撮ってないんだろうな、なんて無駄なデジタル一眼レフ。そう考えながらササライはビニール袋をテーブルの上に置いた。
「説明するまでもないだろう。おまえこそ、その袋は何だ」
「天丼です。ルックと食べようと思って持って来たんですが、寝てるし冷めるし、ヒクサクさま召し上がりますか」
「もらおうか。……なぜ一緒にチョコレートが入っているんだ。溶けているぞ」
「あ、やっちゃった。いえ、ここに来るまでにお供えされたんですよ」
「そういう時は白衣のポケットに仕舞いなさい」
 失礼しました、従順に返事をしてササライは割り箸を割る。ちらりとルックを見遣れば彼はまだ眠りの中だった。余程疲れているらしい。
「む、美味いなこの天丼」
「食堂で作ってもらってきたんですよ。やはりジンカイさんをスカウトしたのは正解でしたね」
「そうだな。私も今度彼に夜食を頼んでみよう」
 それはやめておいた方がいいんじゃないですかあの人信者じゃないですよ、言い掛けてササライは口を噤む。信者でないのなら入信させれば良いだけの話だ。近いうちにハルモニア聖典を自宅に送ってあげよう、と今後の予定を密かに立てる。
「ときにササライ。先日はテッドくんに肉まんを奢られたそうじゃないか。私から礼に中華まんセットを送っておいたぞ、GUNTOの情報システム課宛で」
「……ああ、だからですか。昨日レイくんとすれ違って、ブルーベリーチーズまん美味かったと伝えてくれ、と言われたのは。誰に伝えればいいのかさっぱりわかりませんでしたが」
「ふむ、喜んでもらえたのなら幸いだ、受取人が違うにせよ。ところでこの溶けたチョコはどうする」
「ここの冷蔵庫に入れときましょうか。ルックのおやつに」
「…………なにしてんのさ」
 寝起きの掠れた声に、おや、と振り向けばルックが機嫌の悪そうな顔で伸びをしていた。あんたたち暇な上に馬鹿なの、吐かれた言葉を勿論二人とも受け流す。
「起きたのか」
「それだけ騒げば当たり前でしょ」
「あはは、ごめんごめん」
 謝りながらヒクサクに視線を移せば、いつの間にかデジタルカメラは姿を消していた。きっと白衣のポケットに仕舞ったのだろう。ご愁傷さまルック、父のアルバムに増える写真を思って弟を哀れむ。
「悪いな、おまえの分の天丼は私が既に食べ終えた」
「別に良いよ、ていうかいらない。セラのおべんとうあるし」
「君、セラちゃんにお弁当まで作らせてるのかい?」
「今料理にはまってるんだよあの子。毎朝楽しげにアルベルトとユーバーの分まで作ってる」
「ほう。外科は楽しそうで何よりだ」
 父の感想も大概間違えていると思えども、確かに楽しそうではある。今度からナッシュに作らせるか、でも男の弁当は嬉しくないな、などとくだらないことを考えていればルックの剣呑な声が飛ぶ。
「食べ終えたんなら出てってよ、大体ここはあんたたちの休憩室じゃないんだけど」
「私が休憩したいと思う場所が私の休憩室だ」
「そんな言葉に納得するのは信者だけだよ!」
 直にルックの大声を聞き付けて、セラが弁当片手にやってくるだろう。それを素直に受け取る弟を想像して、まったく丸くなったものだなあ、ササライは笑いながら心の中で呟いた。





いちゃいちゃハルモニアファミリーを目指して挫折した。いちゃいちゃってなんだ。