やさしい死神、と呼ばれる医師がいる。

 少女はまどろみから浮上した。ひとつ、意識して瞬きをする。それが今彼女にできるすべてだ。
 治らない病だということは随分前からわかっていた。最期の日が直に訪れることは覚悟していた。それでもやっぱり、とても恐ろしいと思う。
 時が経つごとに少女のいうことを聞かなくなる体は既にぴくりとも動かず、いつもよりもとても重い。意識が押しつぶされるような苦しみに、ぽろりと涙が目じりから零れ落ちた。
「こわい?」
 ふっと伸ばされた指先が少女の涙を拭った。白衣の袖が少女の視界を圧倒的に真っ白に染める。
「つらい?」
 あたたかな掌がそっと頬に触れた。その体温に安堵しながら、少女はひとつ瞬く。
「……終わりにしたい?」
 掌の主が少女を真っ直ぐに覗き込んで問うた。榛色の瞳が綺麗だと、少女は場違いにも考えた。
 神さまはどうしていないのかな、少女がそう呟いたのは、まだ自分の体が自分のものであったころだ。僕が君の神さまになってあげようか、そう穏やかな笑顔で返してきたのがこのあたたかな掌の医師である。
 うん、と頷いた、その時の喜びを少女はまだ忘れていない。
「……もう、やめたい?」
 だから少女はもうひとつ、ゆっくりと瞬いた。そう、と医師が呟くと、彼の金茶の髪がさらりと揺れる。
 それからいいよと頷くと、医師は頬から掌を外して少女の頭をゆっくりと撫でた。
 しばらくして、細くなりすぎた少女の右腕に、針の刺さる感触がする。痛みはなかった。
「よく頑張ったね」
 そう言って彼は再び頬に触れてくれた。あたたかい、と少女は思う。そして強烈な眠気が少女を襲う。
「ぐっすり眠って良いよ」
 瞼を閉じる寸前に映ったのは彼の笑顔だった。そのやさしい微笑みは、とてもとても美しかった。

「……おやすみ、良い夢を」



***



 血まみれの天使、と呼ばれる医師がいる。

 何をしているんだっけ、と少年は思った。横切った道路、迫りくるダンプカー。覚えているのは全身の痛覚への刺激で、それ以降は記憶が曖昧だ。
 そもそもここは何処だろう、辺りを見回して異常に気付く。少年が立っているのは部屋の入り口で、既視感を抱くそこはテレビドラマで見たことのある手術室だ。手術台に乗せられているのは紛れも無く自分自身で、ああこれが幽体離脱か、なんて矢張りテレビで覚えた知識に納得する。
「先生!このままでは……!」
 女性の悲痛な声に舌打ちを返す医師を正面から眺めた。青い手術着と大きなマスクの所為ではっきりとはわからないが、若い男性である。帽子からほつれた金茶の細い髪が覗いていた。
「僕の世話になっておいて死のうだなんていい度胸じゃないか」
 苛立ち混じりに吐かれた声にはっとする。自分は死ぬのだろうか。己が死にゆく様をここで眺めなければならないのだろうか。己の命の終わる音を、ここで聴かなければならないのだろうか。
 戻ろう、と少年は思った。自分の体に戻ろう。けれど足は一歩も動かなくて、どうすれば戻れるのかわからない。焦りながら、医師の手術着を真っ赤に染める己の血を茫然と見ていた。
「いい加減にしなよ、わかってるんだろ」
 そう言うと医師は手術台から視線を上げた。怒りを孕んだ翡翠の瞳が真っ直ぐに己を射抜いて、少年はびくりと全身を震わせる。凛と響く医師の声に、少年の意識は絡め取られた。

「早く起きなよ愚か者!」