春が嫌いだ。
 多くのものを失ったのが春だった。大事なものや、守りたいものを、突然失ったのが春だった。
 さみしいとか、哀しいとか、苦しいとか、つらいとか、そういった感情を表に出すことをテッドは好まない。だが、だからといってそれを感じない訳ではないし、忘れられるはずもない。人はひとりで生きられるようにつくられてはいない。己は決して強くなどない。だが、愛すべきものに守られるより愛するものを守りたい。そういう風に生きている。そういう風にしか、生きられない。
 細く開いた窓の傍で紫煙を吐き出し、ちりんと鳴った風鈴を聞き過ごす。生温く湿った風が前髪をくすぐるのが不快だった。窓の外で視界に入ったものからそっと目を逸らし、同時にがちゃ、と音を立てた玄関を振り返る。眉を顰めた少年と視線がばちりとぶつかった。
「……未成年がなにふかしてんのさ。部屋中、煙い」
「おまえに説教くらう謂れはねえよ。窓開けてるし」
「ほんと最悪。煙、嫌いなんだけど」
「……おまえ、個人的な好みで文句言ってるだけだろ」
「悪い?」
「ったくこれだからガキは……」
 まあなんか、煙苦手そうな顔してるしなあ。そんなことを呟けば、顔は関係ないだろ、と言いながらルックは僅かに開いていた窓を全開にする。
「ササライは結構好きって言ってたしね」
「え、あいつ煙草とか吸うの?」
「いや、副流煙」
「……変態だな」
「まあね。僕にしてみればあんたもあいつも変わらないけど」
「一緒にすんなよ。煙草を吸うのと他人が吐いた煙を吸うのじゃ全然違うだろうが」
「うるさいな。とにかく僕は嫌いなんだって。あんたなんかさっさと肺癌で死ねばいい」
「おまえなー……」
 あんまりな言い様に、テッドは一旦言葉を切った。別に腹は立たない。そういう物言いしかできない人間なのだと知っているからだ。
「そう簡単には死なねえよ」
「……」
「死んだらおまえにしか会えねえし」
「……あんたなんか、すぐに成仏させてやるよ」
「それはそれでいいのかもしんねえけど。でも、死んだらフェンに会えねえしな。あいつに会えない人生なんて意味がない」
「……教えてやるけどね、死後に人生なんて言葉は使わないんだよ、ジジイ」
そう言ってルックはテッドが銜えたままの煙草を中指と人差し指で器用に奪い、己の唇で煙を吸い込んだ途端、不機嫌な顔をますます顰める。
「マッズ……。ほんと、こんなん吸う奴の気がしれない」
「黙れお子様。返せよそれ」
 テッドが伸ばした指先をすり抜け、ルックはいくらか短くなった煙草をぽいっと窓の外に投げ捨てた。げ、と眉を寄せたテッドと対称的に晴れやかな表情をしたルックは、ぱんぱん、と指先を払う仕草をした。
「おまえさあ……。マナーってもんを教えてくれる奴はいなかったのか」
「いたと思う?」
「なんで偉そうなんだよ」
 地面と空にそれぞれ視線を遣って、テッドは小さく肩を竦めた。じきに雨が降る。
「……おまえ、今日はどうすんの」
「…………別に。雨宿りしたら帰る」
 そういうのは降り始めてから言う台詞だと、声に出すことはしなかった。代わりに立ち上がって彼を蹴り付け、コンロに向かって歩き出す。
「夕飯、昨日の残りのカレーでいいか」
「やだ。あんたの作るやつ、辛口でしょ。僕は中辛がいい」
「生卵でも入れろよクソガキ」
 人のベッドで勝手に寛ぐ子供を横目にコンロにカチリと火を灯す。ぼう、と炎のめぐる瞬間がテッドはあまり好きではない。
「…………俺は、おまえが嫌いで良かったよ」
「お互い様だろ」
 小さく小さく、独り言のつもりで発した言葉に応えがあって目を瞠る。ルックはこちらに見向きもせずに外を静かに眺めていた。ぱたん、と音がしたかと思えば風が雨の匂いを運んでくる。ルックの手が窓に触れたのを確認して、テッドは鍋に視線を戻した。
 しばらく雨は止まないだろう。お互いにそう、願っている。