小さな島だ。子供の足でも簡単にひと巡りできてしまうサイズの島に、緑の木々が生い茂っている。雑然とした林を抜けると目の前に優美な塔が聳え立つ。
 魔術師の島、と呼ばれているらしい。話を聞いたのはシエラからだったか。足を踏み入れるのは初めてだ。

 ふと、人気を感じて立ち止まる。視線を巡らせれば、塔の入り口から近く、子供がひとり佇んでいる。ざわりと右手が蠢いて、慌ててその甲に左手を重ねる。あまりの静けさに油断していたのだ。けれどもその行為に意味はなかった。止める必要すら、既に無く。
 魂喰らいが、戸惑った。
 己が、ではない。右手に棲む忌わしい紋章が、子供の魂を喰らおうとして、戸惑った。驚愕する。

「おまえ……なに」

 思わず漏らした言葉を受け止めて、無表情だった子供はひどくつまらなさそうな顔をした。彼がもう少し年を重ねていたならば、己はその表情を諦念と感じただろう。子供には似つかわしくない表情だった。
 ボーイソプラノが投げやりに言葉を放る。

「レプリカだよ、魂喰らい」

 テッドは初めて子供と目を合わせた。翠色のふたつの瞳に浮かぶのは、ただ、諦めのいろのみだった。



 *****



 三夜、過ごした。翌日は晴天だった。

『手綱を緩めても構いません』

 星見の魔女はそう告げた。強大な魔力を持つ島の主の心配などは始めからしていないが、風の少年は気がかりである。どうしようかと思案しながら森を散策していると、少し開けたところで件の風使いに行きあった。
 少年の翠の瞳は確実にテッドを視認していた。けれども彼はこちらに興味を持つことすらせず、ひとりで風と戯れ続けている。
 無視された、とは思わなかった。その瞳の意味を知っている、と思った。要するに、似ていたのだ。希望を信じることすら出来なかったかつての自分と。
 だからと言って、どうこうしてやる気もなかった。そんな義務も義理もなかったし、なにより彼が自分の同属であるのなら、自分では彼を救えるはずがないからだ。

「…ソウルイーターについて、知識は?」

 問うた言葉には反応を返した。億劫そうに言葉を紡ぐ。
「知っている。僕は喰われない。放し飼いにしたところで、僕もレックナート様も困らない」
 投げやりな様子がなんとなく面白くなかった。だからテッドは試してみる気になったのだ。
 大丈夫だと言うなら、放してやる。
 テッドは闇を許した。戒めを解かれた闇は嬉々として広がる。不運な蝶がぱたりと地に墜ち、栗鼠が本能からか、森の中に逃げてゆく。
 闇が、戸惑いながら少年に手を伸ばした。極めてゆっくりと、それでも確実に、風使いを捕らえようとする。

 ぱしん、と。

 風が闇を弾いた。
 魔力に圧された訳ではなく、ただ、風が。
 それは300年生きてきて、初めての経験だった。



 *****



 月がひと巡りした。昼間の生温い大気が鬱陶しく絡みつく。
 風使いは両足の裾をたくしあげて、川の浅瀬にそれを浸からせていた。編み上げのブーツは近くに転がっている。暑さに辟易していたテッドも彼にならった。
 少年はちらりとこちらを見やる。興味のなさそうな表情だったが、テッドに向かって冷風が吹いた。それは束の間纏わりついて、テッドの体をひんやりと冷やす。
「…サンキュ」
「…僕じゃない。風の気まぐれだ」
 真偽の程はどうでもよかった。けれども生気のない翠の瞳が勿体ないと思って、尋ねてみる。
「なあ、おまえさ」
 翡翠が瞬いた。これ以上話しかけられるとは思わなかったらしい。
「なんでこの島にいるんだ」
 少年は少し考え込んだ。それからゆっくりと口を開く。
「レックナート様の弟子だから」
「なんで弟子なんてやってんの」
「僕を連れ出してくれたから」
「どこから」
「…答える必要を感じない」
 あっそ、とテッドは返した。無理矢理聞きだす趣味はない。
 じゃあ、とテッドは問うた。風使いは首を傾げた。
「おまえはここで何をしてんだ」
「……僕は、ここで、生きている」
「何のために」
「何のため?」
 少年は驚いたようだった。生きることに理由が必要なのかと。ぱちぱちと瞬きを繰り返して考え込む。
 テッドはじっと待っていた。知りたいのだ。まるで死んだように生きている風の申し子が何を思って生きているのか。時の流れを感じさせないこの島で何のために生きているのか。
「………人になるため」
 ボーイソプラノが耳を打った。
「え?」

「僕は、人間になるために生きている」

 意味はわからなかった。けれども彼にはふさわしいような気がした。彼は人であるように思えなかった。
「ねえ、あんたは人間でしょ」
「…時の止まった人間だけどな」
「ねえ、人間って、なに」
 束の間、息を呑んだ。己はその答えを持たなかったからだ。人を避けるように生きてきた自分は。
 なに、と問う少年の翡翠はひかりを得ていた。ひと月触れ合って、初めてみる生気だった。
 けれどもテッドには答えられなかった。言葉にすることなどできなかった。
 300年も生きてきて、なにひとつ答えてやれない己を恥じた。

「……わからない」

 そう、と少年は呟いた。僅かに滲む失望の色が、痛かった。



 *****



 秋が、始まろうとしている。
 テッドは台所に足を踏み入れた。そこは風の少年のテリトリーで、彼は今、夕食の支度に勤しんでいる。この島では一切の家事が彼の手によって賄われていた。
「ルック」
 びくりと明らかに肩が震えた。気配に聡い少年が自分に気付いていなかった訳でもなかろうに。そう思ってから、己が初めて彼の名前を呼んだことに気が付いた。
「………何か用?」
「ああ。…俺も、何か作っていいか」
 その言葉に驚いたのか、少年はくるりと振り向いた。翠の瞳が常よりも少し大きく開かれている。
「…もう、大体終わってるよ」
「じゃあ、デザートか何か」
「……好きにしたら」
 何故、と彼は問わなかった。問い方を知らないのだろうか。他人の心情に踏み込む方法を。
 痛ましい子供だと思った。もどかしいとも。けれども自分は慰め方を知らない。
「毎年、祝うことにしてる」
「…そう」
「忘れないために。じゃなきゃ、300年も待てねえよ」
「ふうん」
「デザート作るような材料、あるか。なんでもいいんだけど」
「そこの戸棚に、ケーキ用の。たまにレックナート様が召し上がりたいと仰るから」
「ん、ああ、これか」
 道具を手にしたテッドを、風使いがじっと見つめている。テッドは苦笑して、全て取り出してから戸棚を閉めた。
 左手を伸ばして金茶の髪に触れる。少年はぴくりと震えたが、逃げはしなかった。
「希望を待ってる。希望に会えるのを待ってる」
「…希望って、会うものなの」
「俺にとっては」
「そう…」
 少年の髪は柔らかかった。くしゃりと混ぜると、窓から吹き込んだ風がじゃれるようにテッドの手に絡みつく。

 会話に既視感を覚えた。テッドは古い記憶を手繰り寄せる。
 あれは確か甲板の上でのことだった。薄茶の髪の少年が、やはりじっとテッドを見つめて問うてきた記憶。
 テッドに希望を信じることを教えてくれたのは彼だった。ついぞ、それを伝えてはやらなかったけど。

「おまえも会えるといいのにな」
「…希望に?」
「希望を与えてくれる人に。それを信じてもいいんだと教えてくれる人に」
 テッドは風使いの頬に触れた。少年は他人の体温を恐れて小さく肩を震わせた。
 彼が人肌に安心できる日がくるといい。テッドはくすぐる風に願った。



 *****



 木枯らしが吹いている。
 晩秋の風は冷たいけれど、不思議と寒さは感じなかった。凛とした冷たさが心地良い。
 右手から解放されたがる闇をテッドは許した。草の上に寝転ぶ自分を包むようにゆるゆると闇が広がる。
 隣に寝そべって紋章学の本を読んでいた風使いがそれに気付いて溢れた闇を人差し指でつついた。今更ながら、変な子供だとテッドは思う。止める気はないので放置していたら、興が乗ったのか、風まで混ざり始めた。闇を慕うように、穏やかに。
 少年は自らの掌を包み始めた闇を興味深そうに眺める。順番に指を折って、また開いて、それを幾度か繰り返した。風が彼の髪をくすぐっている。
 闇は静かに彼を浸蝕してゆく。けれどもそれが心臓に近付いた途端、風がぱしんと闇を弾いた。闇は大人しく引いて、そこを避けて再び彼を覆ってゆく。
 彼は闇と戯れていた。決してこちらの眷属ではなかろうに。
 首筋にそれが触れると、彼はくすぐったそうに目を瞑った。テッドはそれを少し残念に思う。彼を形作るパーツの中で、その翡翠が最も美しかったから。
 闇の御方、と風が囁いた。奪わないで欲しいと。連れて行かないで欲しいと。
 そのつもりはなかった。だから、くい、と指を折って闇を手招く。ゆっくりと集束してゆく。
 風使いはそれをじっと見つめていた。闇が右手に収まりきって、漸く翠の瞳をこちらに向ける。
 温かかったと少年は告げた。そうか、とテッドは返す。それだけでお互いに充分だった。
 彼は再び書物に視線を落とす。テッドは晩秋の空に視線を戻した。
 木枯らしが鳴いている。



 *****



『言ったでしょうテッドくん。いつか、君の右手が誰かを救うかもしれないと』

 島の風は穏やかだった。昼下がりの屋上で陽光を浴びるのは、いつしかテッドの習慣になっていた。
 テッドがこの地を訪れて、既に半年を過ぎた。休息の為に訪ねた島は案外居心地が良い。追手から逃れる必要もなく、死神が鎌を振るう心配も無い。テッドにとって、とても住みやすい場所であると言えた。ただひとつ、時折生きていることを忘れそうになるという欠点を除いて。
 ヴン、と空気が揺れる。風が一声鳴いた。
 現れた風使いはテッドの隣にすとんと座り込む。テッドがちらりと彼を見遣ると、少年は石造りの床を睨みつけたままぽつりと言葉を落とした。
「……ねえ」
「ん?」
 風の魔術師は言葉を探していた。すらすらと聖句を紡ぐ唇は、問いかけの言葉ひとつを探しあぐねて固く結ばれている。
 テッドはじっと待っていた。少年が唇を噛んで、じんわりと血が滲む。しばらくためらって、彼は再度口を開く。

「…僕に、魂はあるの」

 彼には悪いが、テッドは正直なところ、この問いが嬉しかった。闇を宿して300年、戦闘以外で初めてそれが役に立ったのだ。
 彼の魂は確かにあった。複雑な構造であっても、人間と違うものであっても、紋章に絡めとられていても、それは確かに存在していた。そう伝えられるのが嬉しかった。
「あるよ。おまえが何から作られてようと、おまえが何者であろうと、おまえにはおまえの魂がちゃんとある」
 テッドは血の滲んだ唇に左手の親指で触れた。水を宿した指先で傷を辿る。

「おまえは、人間になれるよ」

 風使いはうっすらと微笑んだ。その笑みを引き出したことを、テッドはこっそりと誇った。



 *****



「おまえとは、100年前に出会いたかった」
 微かに陽光が差し込む森の中。唐突にそう告げたテッドに風使いは不審な目を向けた。
「僕、生まれてないけど」
「知ってる。おまえが100年前に生まれてて、そのときに会えてたら良かったって、そういう話だ」
「…何が言いたいのか、よくわからない」
「100年前に出会ってたら、おまえを連れて旅に出たのに。おまえに世界を見せてやりたかった」
 絶望を抱えても生き続けることができた世界を、どれだけ疎んでも愛してくれた人々を、どれだけ嫌おうとしても愛さざるを得なかった人々を、彼に教えてやりたかった。大切な人々から受け取った愛しさを彼にも分けてやりたかった。けれどもう遅い。
 もうすぐ死ぬことがわかっていながら彼を連れ出すことなどできなかった。きっと1年や2年では己は彼の痛みを癒してなどやれないし、己の孤独を彼が埋めることもできないのだろう。自分たちは同質であるから。それが故に、傷を舐め合うことしかできないから。
 ならば中途半端に関わるべきではなかった。途中で放り出してしまうことがわかっていながら彼を連れ出すことなどできなかった。そうしてしまったら、この子供は己の死に打ちのめされるに違いない。
 この哀しい少年を、これ以上傷つけたくなどないのだ。

 ごめんな。そう呟けば、幼い風使いは、唇の端をほんの僅かに持ち上げて冷笑した。
「馬鹿だね。あんたに頼まれたって、僕はついていくつもりなんかないんだから」
 ああ、その嗤い方を知っている。深く、深く、身に沁みて。
 たまらなかった。だからその小さな体を思いっきり抱き締めた。
 痛いよ馬鹿。少年の高い声を、風がさらった。

 わかっている。本当は、数年後の『希望』を諦めて、彼と共に数百年、生きることだってできるのだ。
 けれどもテッドは諦められなかった。
 300年前に出会ったきりの『彼』にもう一度会いたかった。
 おまえの言葉を糧に生きてきたのだと伝えたかった。『彼』が未だ、己に出会っていなくても。
 諦められなかった。だから、今、腕の中にいる風使いを見捨てて行くのだ。彼の苦しみを知っていても。

 少年は理解しているのだろう。テッドにとって、彼よりも『希望』の方が大事であることを。
 けれども彼は何も言わなかった。
 ほんの少し、心を開くことを知った少年は、連れて行けとも置いて行くなとも言わなかった。
 彼は期待などしていないのだ。希望すら知らないから。
 それを与えてやれなかったことをテッドは悔やんだ。たった一筋の希望も与えてやれなかったことを。

 別れの季節が来ていた。



 *****



「さよなら、テッド」

 己の去り際、風使いはそう告げた。
 彼に名を呼ばれたのは、それが最初で最後だった。