思わぬ場所で思わぬ人物と遭遇した驚きに、レーテはぴたりと歩みを止めた。
砂漠の砦からの帰り道、アピロ丘陵を通り過ぎようとしていつの間にか花を咲かせていた時代樹に気付く。最近あちこちに増えている、とつい先ほど会った仲間から聞かされたばかりだ。本当ねえ、と樹に近づき、それから樹の根元の人影に気付いてくすりと笑みを零した。
真っ白い少年が、樹に凭れて眠っている。
レーテは口元に弧を描くと、辺りに落ちている枯草を拾う。掌にこんもりと乗る量を集め、それをふわりと彼の頭上から広げ落とした。
「……随分な挨拶だね、お姉さん。花でも葉っぱでもなく、枯草とは良い度胸じゃないか」
「そういう言葉が出てくるってことは、あなたは私の知っているあなたなのね?」
「どういう意味かな?」
「どういう意味かしら」
ふふ、と微笑んで彼の隣に腰を下ろしたレーテに、汚れるよ、と咎めるような声が掛けられる。構わないわ、と返してからレーテはことりと首を傾けた。
「今日は一緒じゃないのね、団長さん」
「ああ、どうやら修行がてら各地を巡ってくるらしいよ。宿星集めもしたいみたいだし」
「精が出るわね」
「どうかなあ。大方、タクシスの物価にでも驚いたんじゃない?」
「200年後もあの街の異常な物価は変わらないのねえ」
「そういうことだね」
ゼフォンはぱたぱたと頭を振って髪に引っ掛かった草を払う。ローブの上に落ちてきたそれを、少年は人差し指でぴんと弾いた。
「それで? お姉さんはこんなところで何してるのかな。ペリエの森で隠棲してるんじゃなかったの?」
「あら。私と老師の二人で自給自足ができると思うの? 森から出るときだってあるわ」
「嘘ばっかり」
そう言ってにやりと笑うゼフォンに、レーテはつんと澄ましてみせた。
「嘘は言っていないもの」
「そうだね、本当のことを言ってないだけだ」
「それを理解している人に、本当のことなんて言う必要があるのかしら」
「やれやれ。寿命、縮んじゃうよ?」
「いいのよ。だって、そうしたいと思ったんだもの」
レーテが微笑めば、ゼフォンは呆れたように溜息を吐いた。老成した仕草に違和感はない。
「そうしたい、ねえ。そんなに彼を殺したい?」
「あなたはそう思っていないような口振りね」
「そうかな?」
「そうよ?」
「そうでもないと思うんだけどなあ」
「ふふ。……あの時代を知っている者は誰だって、彼を殺したいなんて思わないわ。でも、責任の一端は私にもあるもの。だったら義務は果たさないといけないでしょう?」
「ふうん?」
「そう思わない?」
「さてね。何のことだか」
「じゃあ、あなたは何のために戦うの?」
問いかけにゼフォンは肩を竦め、遠くを見据えた。夕暮れは近く、空は徐々に赤みを増してゆく。
「……怖がりの友人がいるんだ」
「あなたに友達なんていたの?」
「失礼だなあ、お姉さん。いるよ。臆病者で、だけどすごく頑固な友人がね」
「……それで?」
「ボクは彼がかつて絶望を味わったことも、だからこそ臆病になったことも、彼がずっと何を恐れているかも知っている。ボクはボクのしてきたことに間違いなんてないと思ってるし、今更後悔する気もないけれど、彼を一人ぼっちにしてきたことは悪いなあと思ってるよ」
――その臆病者が誰を指すのか、レーテは正しく悟っている。
誰もが誰かを亡くした時代だった。生き残った誰もが、誰かを見捨てて生きることを選んだ。全員が共犯者で、だからこそ誰もが口を閉ざし、過去を忘れ、未来だけ見据えて生きることを望んだ。レーテとてその一人だ。
けれどただひとり、ひと時の忘却さえも許されなかった者がいる。
それを知っているからこそ、アストリッドの要請に即答することができなかったのだ。砦で彼女の決意を聞いて以来、レーテは己に問い掛け続けている。
私は彼を糾弾する権利を持つだろうか。
あの絶望を、恐怖を、罪の重さを、忘れず生きてきた彼を責められるだろうか。
彼と同じ選択をしないと宣言できるだろうか。
私は――彼に恥じない生き方をしてきただろうか。
「ボクが傍に居ようと彼の選択は変わらなかったと思うけどね。それでもきっと、今みたいな気持ちで選ぶことはなかったんだろうなって、そんな風には考えるよ」
そう言ってゼフォンは立ち上がった。レーテが首を傾げれば、少年は赤く染まった空をついと見遣った。そうね、と返してレーテも立ち上がる。
「じいさんが心配してるんじゃないのかい?」
「今日はマルティリオンに泊まるって伝えてあるわ」
「砦に泊まれば良かったじゃないか」
「でも、おかげでこうしてあなたに会えたでしょう?」
「ボクに会えてもねえ」
んん、と伸びをして、地面に置いていた杖を拾う。とん、と地に付けてからゼフォンは時代樹を見上げた。
「それじゃあね、お姉さん。もう、会うこともないだろうけど」
「あら、わからないわよ?」
「はは。事が片付いて、万一ボクも君も生き延びていたら、その時は会いに来てあげようか?」
「ええ、待ってるわ」
物好きだなあ、笑って少年はそっと樹に触れた。真っ白なローブを纏った後ろ姿を、レーテはじっと瞳に焼き付ける。ゼフォンの姿が完全に消えてから、さようなら、と小さく別れを呟いた。
――きっともう、二度と会えない。