森羅宮の一番高く。ドーム状の建物のちょうど天辺にあたるこの部屋が、レネフェリアスの最も好む場所だった。いっとう遠く、世界を見渡せる。森羅宮から出ることのかなわぬレネフェリアスにとって、この景色こそが唯一己で確認できる世界である。
 かた、と物音がして、背後に慣れた気配が近付いてくる。近年では側近にも教えていないこの部屋の入口を知るのは、今や彼だけであるはずだった。
「やあ。新郎がこんなところで黄昏て居ていいのかい?」
「……久しいね、ゼフォン」
 椅子に腰かけているレネフェリアスをすたすたと通り過ぎ、少年はローブの裾を翻して床に座り込んだ。この部屋に椅子は1脚しかないからだ。
「久し振りだっけ?」
「君は薄情だな。ここ5年ほど、会った記憶はないよ」
「今更5年やそこらで何を言うんだい。それより、さっきも言ったけど新郎がこんなところに居ていいの?」
 奥さんが泣くよ、そう言って笑うゼフォンにはわからないだろうとレネフェリアスは思う。同じだけの時を生きてきても、己と彼の感じる時の流れは大きく違う。この森羅宮から離れられない己にとって、時間とはただただ単調に過ぎてゆくものだ。自ら選んだこの生き方を悔いたことはない。ないけれど、自由に歩くことのできる彼を羨まないと言ったら嘘になるだろう。
「新郎と呼ぶのはやめてくれないか。婚姻の儀はひと月も前に済ませたよ」
「それこそ、ひと月なんて! 世間的にも君はまだ新郎だろ?」
「……これ以上その議論はやめておこうか。それで、どうしたんだいゼフォン。君が訪ねてくるなんて」
「ボクが理由もなく友人に会いに来たらおかしいかな?」
「おかしいね。私の知る君ならばそのようなことはしないだろう」
「……君、ボクをどう認識してるのさ」
「この世界の誰よりも、正しく認識していると思うけれど?」
 そう告げればゼフォンは苦笑し、サイドテーブルに置いてあるワインを瓶ごとさらった。そのまま口を付け、中身を減らしてから手の甲で唇をぐいっと拭う。
「……行儀が悪いな」
「突っ込むとこ、そこ? いいけどさ」
 ワインの瓶を床に置いて、ゼフォンはガラス張りの壁に凭れる。碧の瞳に夜のタクシスを映し、問いかけるように言葉を紡いだ。
「君、景観保護法とかいって、森羅宮より高い建物の建造を禁じたんだって?」
「それくらいの我が儘は許してほしいね。私にとって唯一のこの景色を封じられたら、気が狂いそうだ」
「ふうん……」
「それで、結局君は何をしに来たんだい?」
「……せっかち」
 ゼフォンは口を尖らせる。その仕草は彼が本当に子供だった頃と寸分違わず、思わずレネフェリアスは笑みを零した。
「笑うなんてひどいなあ。……本当に、理由なんてないんだよ。ただ、もうすぐだなって思っただけさ」
「……あと3年だね。大丈夫、準備は進めている」
「わかってるよ、君がそれを怠らないなんてことはさ。今回の奥さんだって、それを見越して娶ったんだろう?」
「まあ、そうだね。彼女は非常に優秀な魔術師だ」
「おまけに美人で、聡明だ。君の歴代の奥さんの中で、今のところ一番好きだな」
「……あげないよ?」
「要らないよ。聖皇陛下の妃なんて、畏れ多いったらないね」
「ちっともそんな事を思ってなどいないくせに。君の方こそ、そちら方面はどうなんだい?」
「馬鹿にしてる? このナリで、どうやったらまともな恋愛なんてできるのさ。この間なんか、うっかり助けた10歳の女の子に求愛されたよ」
「ぶっ……」
「だーかーらー。笑うなっての。……ったく、より取り見取りの君と一緒にしないでほしいな」
「ふふ、人聞きが悪いなあ」
 ゼフォンは微笑んだレネフェリアスを横目で睨み、それからふっと表情を解いて口元に笑みを刷いた。ひとを喰ったようなそれに寂寥感を覚える。
 ぜんぶ、お見通しなんだよ。そんな風にゼフォンが笑う頻度は、年を追うごとに増えていった。昔からの生意気な態度はそのままに、けれど素直さを失っていく彼の変化は、自分たちの過ごしてきた年月を如実に示している。身体は変わらずとも、心は歳を取るのだ。
 ゼフォンでさえも、変わってゆく。ならば己は――いつまで老いずにいられるだろうか。
「……さて。そろそろ帰ろうかな」
「もう? ゆっくりしていったらいいだろうに。部屋なら用意させるよ」
「何て言って用意させるつもりだい? 聖皇陛下が突然年端もいかない少年を連れてきたら家臣が驚くよ」
「……昔、私のベッドに潜り込んで臣下を驚嘆させた君の言う台詞ではないよ」
「いやだなあ、細かい男はモテないよ?」
「私には妻がいるので心配ないな」
「ははっ。ま、なんにせよ目的は達したからさ。やっぱり今日は帰るよ、ふかふかのベッドは魅力的だけど」
 ゼフォンは立ち上がり、飲みかけのワインをテーブルに置いてローブの埃を払う仕草をした。レネフェリアスが視線で問うと、彼は肩を竦めて両手を広げる。
「会いに来ただけだよ、レネフェリアスがどうしてるかなってね。大分お疲れのようだけど、君が笑えるならこの世界は安泰さ。安心したよ、君はまだボクの知っている君だ」
「……まるで、私がいつか、君の知る私ではなくなるような言い草だね」
「知らないよ、そんなの。そういう未来もあるのかもしれないけどさ」
 ボクは望んでないよ、そう言ってゼフォンは扉に向かって歩き出す。己の横を通り過ぎようとする彼の手首を掴み、驚いた瞳と視線を合わせた。
「ゼフォン。……いつか、私が、君の知る私ではなくなってしまったら…………」
 言い淀んだレネフェリアスをじっと見据え、ゼフォンはただ、次の言葉を待っている。
「……君が、私を正してくれないか」
「…………私を殺してくれないか、って言えないのが君のつらいところだね」
 苦笑したゼフォンは掴まれていない方の掌でレネフェリアスの頭をぽんぽんと撫でる。久しく覚えのない感触にレネフェリアスは戸惑った。
「いいよ。君がボクの知る君でなくなってしまったら、ボクが糾弾してあげる。刺し違えてでも止めてあげるよ」
「殺されるのは困るな。世界が守れなくなる」
「そのときは、ボクが皇王を継いであげようか?」
 本音とも冗談ともつかぬ声音でそう告げて、ゼフォンはレネフェリアスの手を柔らかく振り解いた。それからくるりと後ろを向いて今度こそ立ち去ろうと歩き出す。それを止めずに、レネフェリアスは振り返らぬまま去りゆく背中に投げ掛けた。
「……あげないよ?」
「やーだなあ、カタい男はモテないよ?」
「アストリッドは良い妻だ」
「はいはい」
 くすりと笑う声と共に彼の気配が遠ざかる。扉が閉まる寸前、呟かれた言葉に既視感を抱きながら、レネフェリアスはゆっくりと瞼を閉ざした。
「……おやすみ、レネフェリアス。良い夢を」