「お前……行くか?」
 断られてもよいと思った。そうするだけの理由もあると思った。
 けれど、

「行ってもいい」

 彼が一番ふさわしいと思った。
 ……断らないとわかっていた。


   ***


「おかえり」
「ただいま」
 慶。雁主従に宛がわれた清香殿の一室で、六太は蓬山から帰還した尚隆を迎え入れた。憮然とした面持ちで上着を手渡す尚隆に六太は苦笑する。
「おつかれさん」
「疲れた。ほんっとうに疲れた…」
「蓬莱からとんぼ帰りで蓬山だもんな。ま、年寄りにはキツイ道程か」
「おまえも年は変わらないだろう」
「10は違うだろ。全ッ然違う」
「500年も生きておいてよく言う…」
 それだけ言うと尚隆は倒れるように牀榻に飛び込んだ。行儀悪ィなあ、六太が呟くと彼はのそのそと起き上がり、牀榻の頭に背を預けるようにして座り込んだ。
「六太」
 にっこりと笑って紡がれる声に溜息を吐く。間違いなく、傍へ呼び寄せる意図を持った声だ。いつまでもそうやって子供扱いをするから六太は年を取った気になれないのだ、500年も。
「おいで」
 甘ったるい声音で呼ばれたら麒麟が逆らえる訳がない。六太がもう一度溜息を吐いて牀榻の縁に腰掛けると、尚隆の手が伸びてぐいっと抱き込まれ、引き寄せられて彼の両足の間に座り込む形になる。彼の両腕は六太を強く拘束していて、背中全体に彼の体温を感じる。
 不本意だ。全くもって不本意だけれど、そうされることで安堵する自分がいる。泰麒を探し回った疲れも、その彼が今だ目を覚まさないことへの心配も、尚隆の体温でじわじわと侵食されて、安堵へと変わってゆくのを感じる。この腕を振り解けないのはそのせいだ。

 しばらくそうしていた。おとなしい主を訝しく思って振り返ると眼球をぺろりと舐められ、睨みつけると彼は目を細めて微笑った。馬鹿な主だ。彼はいつだってそうやってごまかそうとする。自分はごまかされるほど子供ではないし、ごまかされてやるほど浅い仲でもないというのに。
 六太は身をよじって尚隆に正面から向き直る。今度は耳を食まれた。それには反応してやらず、彼の胸に頭を埋める。
「だから言っただろ、蓬莱はもう、俺たちの国じゃない」
「そうだな。そうだろうと理解はしていたつもりだったんだが…。国は変わるものだな」
「雁だって変わっただろーよ。500年前と今じゃ、全然違う」
「まあな。俺のおかげだ」
「俺のおかげだろ馬鹿」
 尚隆はくつりと笑う。その左手は六太の背に回っていて、右手で髪を梳かれた。
「慶王に会ったとき、おまえの言っていた意味がわかったよ」
「…なんか言ったっけ、俺?」
「慶王は……陽子は、仲間だけれど同胞ではないと。確かにそうだな。陽子の故国は俺たちの故国ではない」
「ああ…」
「長いな、500年は」
「…尚隆」
「わかってるよ、まだ大丈夫だ。まだ死ぬ気はない」
「おまえの気分はころころ変わるからな、アテになんねえ。当分碁石なんて集めんなよ」
「…知ってたのか」
「麒麟をなめんな」
「心得た」
 尚隆の両手で頬を挟まれて額に口付けられる。角のすぐそば、ぎりぎりの所を正確に触れるのが小憎たらしくて、手から逃れて彼の首筋を舐めてやる。
「言っとくけど、尚隆」
「なんだ」
「俺は二王に仕える気なんてないから。滅ぼす時は俺を先に殺せよ」
 まじまじと見詰められる。尚隆は少し考え込むようにして、それから破顔する。
「約束しよう」
「…なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「いや?」
 尚隆の手が再び六太の髪を梳く。今度は唇を舐められた。
「後悔しないで済みそうだと思っただけだ。あの海よりもおまえを選んだことを」
「当たり前だろ。させねえよ」
「それでこそ延麒だな」
 くつくつと尚隆が笑う。黙れという代わりにその唇を食んだ。


   ***


「明日、雁に戻る」
 まどろみかけた脳に尚隆の声が届いた。夢うつつのまま返事をする。
「そうだな…これ以上国を空ける訳にはいかねえし…」
「おまえは残っていいよ。泰麒が気になるだろう」
「…うん」
 頭を撫でられた。いっそう眠気が深くなる。
「…あの海を知る者はもういないな」
「…俺がいる…」
 尚隆が笑った気配がする。閉じた瞼に唇を押し当てられた。
「…もう眠れ」


   ***


 なあ、尚隆。
 おまえの麒麟で居続けるから。俺の全てをおまえにやるから。
 おまえの愛も怒りも喜びも哀しみもすべてすべて引き受けるから。
 あの海を喪ったことをどうか嘆かないでほしい。苦しまないでほしい。
 
 おまえの故国を、
 俺たちの故国を、
 おまえの隣で俺が一生覚えてるから。