「起きろよ」

 乱暴にタオルケットを捲られた。潤慶が霞掛かった頭を少しだけ持ち上げて瞼を開けると、目の前には最近見慣れた整った顔のチームメイトの姿。
「…つばさ?」
「他に居るかよこんな男前」
「あれ?オカシイな僕、男前って言葉の意味間違えて覚えてたかな」
「朝から殴られたい?」
 イヤイヤ遠慮します、そう言いながら潤慶はあたりをくるりと見回す。自分の部屋ではない。何度か来たことのある、目の前のチームメイトの部屋。
「…なんで僕ここにいるんだっけ?とうとう一線越えちゃった?」
「フザケんな、なんでおまえとヤんなきゃなんないのさ。おまえ昨夜オフの前日だからって飲みまくってべろんべろんでここに来たんだよ。覚えてないわけ?これだから酔っ払いってのは嫌いなんだ」
 ひどく不機嫌そうな椎名の様子から察するに、昨晩自分は余程の醜態を晒したらしい。くはっと笑い声を洩らすと彼はますます眉間にしわを寄せる。もったいない、可愛い顔をしているのに。
「まあ、いつものことじゃん?そんなに怒ると肌に悪いよー」
「知るか!誰のせいだ、誰の!ユン、いい加減に酔っ払う度にウチ来るのやめてくんない?はっきり言って迷惑なんだよね、毎回毎回転がりこまれるコッチの身にもなれよ。おまえは何がしたいわけ?」
 それは、色々ある。文句は言うけど椎名はなんだかんだで世話を焼いてくれるし、彼の好みで構成されているこの部屋は結構居心地が良い。酔って人恋しくなった頭に彼のアルトは心地良く響くのだ。
 それに、なによりも、彼は日本語を話す。このラテンの国で聞くことのできないことばを話す。
 潤慶はゆっくりと微笑んだ。きっと椎名は二日酔いの戯言としか思わない。

「日本語が聞きたくって」

 従弟と同じ、あの国のいとしいことばを。


        ***


 なんで泣きそうな顔するかなそこで。

 椎名がこのチームにやって来た時、真っ先に引き合わされたのが潤慶だった。おんなじ東洋人だろ、そう言って椎名の背中を叩いたチームメイトに、国が違うだろうとコーチが苦笑していて。
 けれども潤慶が嬉しそうに彼らの知らない言葉で話しかけてきたものだから、周りはみな目を丸くしていたのだ。日本語話せたんだユンギョン、そんな呟きも耳に届いた。
「久し振り、ツバサ!」
 ひさしぶり、だなんて友人でもあるまいし。椎名と潤慶が顔を合わせたのは、中学時代にソウルでたった一度だけのはずだ。
『…ひさしぶり、ユン』
 スペイン語はしっかりマスターしてきたというのに日本語で話しかけられたのが少しだけ癪で、わざと韓国語で返してやった。すると今度は潤慶が目を丸くして、それからめいっぱい破顔した。
「なつかしーっ!」
 そうして彼が思いっきり抱きついてきたものだから、知り合いだったのか、随分仲が良いんだなとチーム内でセット扱いされるようになったのは、彼の従弟殿には決して言えない内緒の話。
 けれども誓ってもいい、潤慶が懐かしがったのは椎名ではなくて、椎名が話す、このことばの響きだ。

 それからずっと、二人だけで話をする時は韓国語交じりの日本語だった。ひたすら喋り、やたらと話を聞きたがる潤慶を椎名が訝しがると、飢えてたんだよと彼は笑った。
 韓国語に飢えてた、日本語に飢えてた。ラテンの香りのするこの陽気な国は大好きだけど、それを吹きとばすくらいにふるさとが好きだ。
 そんなもんかねえと椎名がぼやくと彼は人差し指をチッチッと揺らした。
 だって好きな人がいる国が一番いとしいに決まってるでしょ?
 そんなことを平気でのたまうくせに潤慶は彼の声を聞こうとはしないのだ。電話もメールもスカイプだって使えるくせに、彼と彼の連絡手段はいつだって手紙だった。いとおしそうに封筒を撫でる仕草に、中てられた気がする、と電話でこっそり柾輝に報告したのはやっぱり従弟殿には内緒だけれど。

 だけどさユン、泣き出しそうに笑うくらいならさっさと電話して泣きつけよ。


         ***


 確かに自分の落ち度だ。椎名の勘が鋭いことくらいとっくに理解していたのに彼の前で何も警戒していなかった自分の落ち度だ。
「だってさあ、声なんて聞いたら会いたくなっちゃうじゃん。うーん、この繊細なキモチはツバサにはわかんないかな」
「繊細が聞いて呆れる」
「なんでさ。ツバサは平気で電話できるわけー?マサキだかアキラだか色々、どれが本命だか知らないけどさー。あれ、そーいや全部男?ツバサもそっち系だった?」
「うるっさいなおまえには関係ないだろってか玲は女だよ!真正のおまえと一緒にすんな!」
「しっつれいな。僕が愛してるのはヨンサだけだもんね!」
「威張んなよ…」
 もっと喋って欲しいと言ったら彼はやっぱり呆れるだろうか。それでもいいから声を聞きたい自分はどうしようもなく愚かだろうか。
 再びベッドにうつ伏せた潤慶を椎名が咎める。
「ユン、休みだからってだらけんなよ」
「うん、もーちょっと」
「そこは俺のベッドだってわかってやってる?」
「うん、わかってるから、もっかい」
「…もう1回、なに?」
「なまえよんで」
「…俺は郭じゃないよ」
「わかってるよ」
 わかってる、そんなこと。それでも呼んで欲しいのだ。韓国語の中に埋もれるように、日本語の中から掬いあげるように、その響きのなかで自分の名を呼ばれるのが好きなのだ。
「いいじゃん、減るもんじゃないし、名前くらい」
「それがおまえにとってどうでもいいことならしてやるけどさ」
「冷たいなあツバサ、健全な浮気なのに」
「あ、浮気なんだ」
「健全だからいいんだよ」
「加担したくないんだけど」
「してくれないならするよ?」
 なにをだよ、そう言いかけた椎名の腕を強く引っ張る。体勢を崩した椎名の顎に手を掛けて、潤慶はにっこりと微笑む。
「ね?」
「…なんで捨て身な攻撃を仕掛けるかなおまえは。フィールド出ると無能なMFだね」
「ツバサも呼んであげるよ。なんて呼ばれてる?やっぱり翼?」
「…あいつは俺を翼とは呼ばないよ」
「なんて?」
「教えない」
「つまんないなあ、ごっこ遊びができないじゃん」
「しなくていいから。ユン」
 強く呼ばれる。
「ユン、呼んでやるから、だから」
「…だから?」
「…早いとこ電話しろよ」
「意味ないじゃん」
 バカツバサ、ぼやきはデコピンで返された。口の達者な椎名は手が出るのも結構早い。喧嘩っ早いと言うのが正しいのだろうか。
 恨みがましい視線を向けると話を変えるとばかりに名を呼ばれた。そうされたら今は反論できない。
「ユン」
「なに?」
「腹減ったな」
「そうだね」
「ユンの分の食料はない」
「ええっ、なにそれヒドい!餓死する!」
「買ってくれば」
「…買って、戻ってきてもいいってこと?」
「さあね。ユンの好きにしなよ。俺はもともと今日はここでのんびりするはずだったんだ」
「じゃあご相伴にあずかろー」
「…よく覚えたねそんな言葉」
「語学の天才と呼んでもいいよ?」
「絶対呼ばない」

 ねえツバサ、確かに僕はヨンサの声を聞けないけれど。
 同じようにツバサが電話を掛けない相手がいることくらいは僕も知ってる。

 高く昇ってしまった日が眩しくて潤慶は目を細める。ブサイクな顔、椎名が呟いて二人で笑う。

「ツバサ」
「なに」
「ひいさん、ってどーゆー意味?」
「……ユン、おまえ、何を知ってる?」

 この国に灼かれたあと、僕らの国に帰ったあと。
 僕らが笑う声の隣に彼らの姿がありますように。