フワフワと、たゆたう空気が心地良い。
 少し離れたスツールに座る沢木は、何やら亜矢と話し込んでいる。酔っぱらった及川と武藤、それに川浜は再び美里と長谷川の話題で大騒ぎしていて、囲まれた美里が悲鳴を上げている。長谷川はひたすらに我関せずを決め込んでいるけれど、誓ってもいい、明日には大学じゅうにこの噂が広まるだろう。
 長谷川さん、可愛くなったなあ。そう心の中で呟いて、蛍はバーのカウンタで右腕を枕にし、左手でグラスを掲げて仰ぎ見た。濃い赤の液体はバーの照明を浴びてきらびやかに輝いて、急激に蛍の気分は沈んでいく。
「おいしい…」
 ぽろりと零れた言葉は紛れもない本音だ。蛍はあまり洋酒が得意ではないけれど、それでもこのワインは美味しいと思う。フランスの、自分にそっくりなマリーの家のワイン。
 ワイン越しに沢木を盗み見る。赤く染まった彼は亜矢にからかわれているようで、こちらには気付かない。その後頭部を見て、やっぱり馬鹿なことをしたなあと後悔する。けれども抑えられなかったのだ。
 ずっと、言わないでいようと思っていた。きっとこれからも死ぬまで隣にいるであろう彼に、想いを告げてはならないと思っていた。否、いまでもそう思っている。
 もし自分が告白したら、おそらく沢木は受け入れるのだろうと思う。それは彼が優しいからではなく、流されやすいからでもなく、勿論蛍のことを好きだからなんかではなくて、彼が弱いためだ。18年間一緒に生きてきた親友を失うくらいならば自らの気持ちを曲げてしまう、彼の弱さの所為だ。
 だから蛍は言わないでいようと決めていた。この想いはひとりで抱えて、昔のように、再び彼を親友として好きになろうとしていたのだ。それなのに。

 そんなのってない。

 どうして自分にそっくりな女の子なんかに近付くのか。全くもって腹立たしい。こんな恰好をしていたって自分は紛れもなく男で、どんなに努力したって変わらない事実だ。それなのに同じ顔をした「女の子」が沢木の傍にいるなんて、想像しただけで涙が出る。自分にとっての最大のハードルを難なく飛び越える彼女が自分の顔をして沢木の隣で笑うなんて、どんな苦行だ。
 それに、タチの悪いことに、そんな彼女を選ばれたら――
 ほんの少しだけ、期待してしまうではないか。
 苦しい。本当にじわりと込み上げてきて、蛍は慌ててハンカチで目頭を押さえる。失望と期待でごちゃごちゃになってぐるぐるして、理性なんてどうにかなってしまいそうだ。
 ワインを一気に呷る。するとこちらを窺ってはいたらしい亜矢が沢木に伝えたようで、水の入ったグラスを持った沢木が向かってきて、蛍は本気で焦った。今隣になんて来られたら、何を言い出すかわからない。
 けれども来るなという視線は伝わらず、沢木は蛍の左隣に腰かける。
「大丈夫か?蛍、洋酒ダメなクセに…」
 やさしくなんてしないでほしい。そう思うのに甘える言葉は勝手に出てくる。
「…酔った」
「あー、何やってんだよ…」
 そう言って差し出されたグラスの水を少しだけ飲んだ。それから沢木を睨みつけるように見据えてみる。
「あのさぁ沢木」
「ん?」
「おまえが及川さんと付き合おうが武藤さんとキスしようが長谷川さんとセックスしようが構わないけどさ」
「は?」
「だからそれはないってばあー」
「なに沢木、してほしいの?してあげる?」
「なんであたしだけハードル高いのよ」
「あら、あたしは入れてくれないの?」
 いつの間にかこちらの会話に耳を傾けていたらしい女性陣から茶々が入る。

「でも、マリーにするなら僕にして」

 すとん、と空気が静まり返った。視界の隅で浜中と美里が顔を見合わせている。及川は厳しい目つきで蛍を見据えていた。けれども今更ひるめないのだ。
「あー…」
 困ったように指先で頬を掻いて、沢木が視線を泳がせる。
「とりあえず、及川たちとはお互いにその気はないし、マリーとは会う機会すらねぇよ…?」
 そう言うと思っていた。だから蛍はにっこりと笑って返す。
「うん、わかってる。冗談だよ」
 亜矢が淋しそうな目をしたのがわかった。彼女は大人だ。
「…全部?」
「全部」
 だけどね、そう言って蛍は沢木の耳元に口を寄せて囁く。だって顔なんて見られない。

「僕がこの恰好でいるうちだけは、彼女をつくらないでいてね」

 沢木がこちらを振り返ったから、視線を逸らしてグラスの水を一気飲みする。
「それじゃ、おやすみ!」
 そして腕を枕にするようにしてカウンタにうつ伏せになる。そうすれば、押しきれない沢木はそれ以上踏み込んではこられない。
「……酔っ払い…」
 そう言って沢木は蛍の頭をゆっくりと撫でて髪を梳いた。やめてほしい、泣きそうだから。
「…どうせ明日会ったら忘れてるんだろ」
 その沢木の言葉に心の中でそうだよと呟く。

 僕は忘れた振りをするからおまえはずっと覚えてて。