この日がくることはわかっていた。けれど少しでも長く、あなたの傍にいたかった。


  春、晴天。
 萩が屋上に立ち寄ろうと思ったのは、ほんの偶然だった。
 卒業式はつい先程終わったばかりで、まだみな思い思いの場所へ移動している最中だ。式の間、聞き慣れた名前が呼ばれるたびに切なくなって、自分が卒業するわけでもないのに萩の視界は潤んでしまった。そんな顔のまま知り合いに会うのは恥ずかし過ぎたので、式が終わるなり講堂を飛び出してきたものの、人に会わない場所を思いつかない。そうしてうろうろしているうちに辿り着いたのがこの屋上に繋がる階段の下だった。萩はそれまで屋上に足を踏み入れたことはなかったけれど、よく知った先輩がここをエスケープに利用しているのを耳にしたことがあるから、何気ない気持ちで足を運んだのだ。
 そして重いドアをゆっくりと開けて一歩踏み出すと、視界の端で見慣れた色素の薄い髪が風に揺れている。
 萩は小さくガッツポーズをして偶然に感謝した。それから慌てて眼を拭い、彼に呼びかける。
「瑞垣さんっ」
 瞬間、ぱっと彼が振り返る。一瞬険しい顔をしたが、萩を認めるとほうっと息を吐いた。
「萩ならええか…」
「なにがですか?」
「…ひとりっきりで別れを告げようと思うてたんや、風流やろ?」
「え、学校に?」
「…俺がそんな愛校心溢るる人間に見えるのかしら?ま、それでもええけどな」
 そう言って瑞垣はにがく笑う。吹く風に感じた春に、萩は再び切なくなった。


 瑞垣は背の低いフェンスに腕を乗せてグラウンドを眺める。萩も隣でそれに倣った。
「瑞垣さん、高校どこ受けたんですか?」
 深い意味などない問いだった。じきにわかることだが、城野よりも先に知って悔しがらせてやろうという、ただそれだけのつもりだった。だから、彼がそんな苦虫を噛み潰したような表情を見せるなどとは夢にも思わなかったのだ。
「…瑞垣さん?」
「うんまあ、言うても構わんのやけど…」
「聞いといてなんですけど、無理に言わなくてもええですよ?」
「違くて…言うのはええんや。後悔もしとらんし。けど萩、おまえ騒がないって約束できるか?」
「…騒ぐようなトコなんですか?」
「人によってはな。あと、なんでって聞くな。こっちのが重要や」
「はい…」
 その念の入れように萩は首を傾げる。それほどまでに非難されそうな選択なのだろうか。このような損得勘定を間違える人ではないし、一時の情に流されて3年間の居場所を見失う人ではないはずなのだけれど。
「あ…」
 唐突に、萩は気付いた。気付いてしまった。騒がれるであろう選択肢が、大きな選択肢が、ひとつだけある。
 そうであってほしくなかった。自分の勘違いであってほしかった。だから萩は、おそるおそる、祈るような気持ちでそれを尋ねた。
「…やめるんですか…?」
 そうして瑞垣の顔を窺い見て、ずるい、と萩は思う。彼はひどく穏やかに笑ったのだ。
「…城山に行く」
 ああやっぱり彼はずるい。そんな顔で微笑まれたら、文句のひとつも言えないではないか。
 彼が何に別れを告げようとしたのかを理解して、どうしようもなく苦しくなる。歯をくいしばっても止まらない涙には抗うのを諦めて、瑞垣に思い切りしがみついた。


 そのままずるずると二人で座り込む。抱きつかれたままフェンスに寄り掛かり、片手で萩の頭を撫でながら、なんだかなあ、と瑞垣が呟いた。
「この体勢、ハタから見たら妖しくない?思い余った在校生に押し倒された卒業生の図?」
「どうせ人なんか来ません…」
「あ、そ。まあええけどな、なんでも…。つか、なんでおまえが泣くんや」
「ナイショです…」
「あ、そ…」
 あなたは泣かないから。あなたは泣けないから。
 代わりに自分が泣くのだとそう告げればきっと、彼はしかめ面をして余計なことをするなと言うだろう。
 だから、理由は言わないけれど。
 本当は、彼に泣いてほしい。すべてを流しきってしまってほしい。
 思いっきり泣いて、すべてを洗い流してしまってほしい。

 だって、瑞垣さん、
 あなたはそんなところで留まっていい人じゃないでしょう?

「…どうして屋上なんですか?」
「…一番高いとこやからな」
 空に、プレゼントしようと思って。ぎりぎりの音量で呟かれたそれに、萩は返事をしなかった。
 メルヘンな言葉で繕った台詞はきっと、こぼれた本音だろうと思ったから。
 ならばそれは萩の触れるべきものではない。瑞垣はそれを望まない。
 彼を頼り彼に甘え、けれども彼を救えない自分が触れて良いものではない。
 きっと今自分にできるのは――彼にひとりきりで野球への離別をさせないことだけだ。
 淋しくならないように。哀しくならないように。
 彼にとって青空が苦しいものにならないように。
 あたたかい春の日差しが冷たいものにならないように。
「…もうちょっとだけ」
「ん?」
「もうちょっとだけ、ここにおってもええですか…?」
 緩く笑む気配がする。瑞垣は萩の髪を梳いた。
「…好きなだけおったらええ」
 でも午後は練習やで、そう言って瑞垣は空を仰ぐ。
「長かった…」
 そしてやっぱり笑うから、涙なんか止まらない。


 あなたが次に見上げる青空が美しくあればいいと願う。