「あーっ、千歳やん!」
不動峰戦を終えて、泊まっている民宿に帰ってきた財前と金太郎が見つけたのは退部届を出したはずの千歳だった。ぴょん、と身軽に縁側に腰掛ける千歳の背中に張り付いた金太郎は、何してんねん、と千歳の髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「他のみんなはどげんしたと?」
「さあ……。金太郎が走りだしよったんで俺らだけ先に来たんです。でもまあコンビニ寄るとか言うてたんで、まだ時間掛かるんとちゃいますか。……あんた、部長戻ってきよったらシバかれますよ」
「わかっとうよ。白石が戻ってくる前には消えるけん、心配せんでよか」
「心配しとるんとちゃいますけど」
「千歳えー、なんで戻ってきたん?」
やっぱり明日も戦いたいなら、ワイが一緒に謝ったるでえ? そう言って千歳の顔を覗き込む金太郎を、金ちゃんはやさしか、と笑って千歳は背中から下ろす。
「ばってん、部には戻るつもりなか。荷物取りに来ただけばい」
「荷物持っていってしもうたら、今夜どこに泊まるん?」
「桔平のとこにでも邪魔するとよ」
「今日負かした相手のとこ転がり込むとか……」
「桔平はそげなこと気にする男じゃなか」
「……どうせ俺は小さい男っすわあ」
下ろされた金太郎は、縁側に腰を下ろして柱に寄りかかる財前を背凭れに座り込む。脚の間に収まる後輩に重いと悪態を吐けど、どこ吹く風の金太郎はこてんと首を傾げて千歳を見上げた。
「ワイ、千歳のことようわからんわ。もったいないことすんねんなあ」
明日もおったら、もっと強い奴と戦えるんやでえ? そう問い掛ける金太郎に千歳は小さく苦笑した。アホらし、と財前はひとり、溜息を吐く。
「金ちゃん、ボコボコにしてやれんくてすまんね」
「ん?」
「本当は、金ちゃんをボッコボコに叩きのめしたかったち。ばってん、今の俺にそれは無理たいね」
「んー……。なんやようわからんけど、ワイはいつだって千歳との試合楽しいでえ? またやったらええやん」
「金ちゃんに楽しくないテニスを教えるんは俺か白石がすべきだったけん、謝っとうよ」
「……千歳え、意味わからんねん。もうちょい簡単に喋れんの?」
むくれる金太郎に千歳が笑う。その様子を見ていたくなくて、目の前の金太郎の肩に額を預ける。光、どないしたん? 金太郎の声はスルーして、彼の腹の前で組む手に力を入れる。
嫌やなあ、と心底思う。こうやって、力の差を見せつけられるのが嫌だ。千歳が謝る理由も、望むものも、理解できてしまうのが嫌だ。いつだって誰もが期待するのは自分ではなく金太郎だ。
天才、と呼ばれるのが本当は嫌いだった。だって自分は、本当の天才の前に、こんなにも無力だ。
「金ちゃんは、明日絶対に勝たなきゃいかんばいよ」
「当ったり前やん! ワイ、コシマエに勝つでえ!」
ぎち、と唇を噛み締める。なんでこいつとおるんやろ、と財前は思う。金太郎のことは嫌いじゃない、けれどテニスをしている限り、彼の傍にいるのは苦痛で在り続けるだろう。
――どうして、金太郎は。
「……光くんだけは、それを思ったらいかんよ」
大きな掌に頭を撫でられる。顔を上げることができなくて右手で叩くが、千歳は動じずに財前の頭をゆっくりと撫でる。それから片手で財前の頭を起こし、血の滲んだ唇を親指で辿った。このひと絶対ドSやん、そう内心で毒づく財前をよそに、千歳はふわりと笑ってみせる。
「思ったらいかんよ」
「……あんたに言われんでも知っとります」
「ん、よかよか。光くんは良い子たいね」
千歳は左手で財前の、右手で金太郎の髪を掻き回す。崩れるからやめてください、なんて苦情には耳を貸してくれない。くすぐったそうに金太郎が笑ったところで、ぽんぽん、と軽く叩いて手を放す。
「あんまりゆっくりしてると白石たちが帰ってくるけん、そろそろ行くと」
そう言って千歳は縁側から下り、下駄を履いて伸びをした。千歳先輩、と呼びかけた声に何ね、と変わらぬ調子で振り返る。
「明日の試合、全部観なあきませんよ」
「ん?」
「全部観なあきませんよ。それがあんたが捨てたモンやさかい」
「……光くんは手厳しか」
からからと笑う千歳は手を振って、からんころんと音を立てて去っていく。その光景を二人で見送って、完全に見えなくなったところで腕の中の金太郎がもぞもぞと体勢を変え、こちらを向いて抱きついた。
「……何やねん。小春先輩が見たら騒ぐでこの体勢」
「光はおってぇな」
「あ?」
「いなくならんといてぇな。光が後ろにおるから、ワイは飛び出すの怖ないんやで」
うしろ、と表現するあたりがまったく憎らしい。あほやん、と呆れて顎を金太郎の頭に乗せ、深々と息を吐き出す。
「俺はあのもじゃもじゃとちゃうで。あと一年はおるっちゅーねん」
「ひかる、」
背に回された腕がぎゅうっときつく締め付ける。馬鹿力で抱きつくなや、そう言っても金太郎の腕は離れない。
あほやん、と財前はもう一度思う。金太郎と自分との差に絶望したのは最近のことではない。金太郎を疎ましく思ったことなんて一度や二度ではない。それでもこうやって傍に居る。
「……とっくに覚悟決めてんねんけど」
昔からいちばん眩しかった。それでもずっと目で追っていた。うるさくても疎ましくても、突き放さなかったのは結局のところ、それでも近くでみていたかったからだ。
財前はゆっくりと目を閉じた。今すぐに、ラケットを握りたいと渇望する。
テニスを続ける限り、この後ろ暗い憧憬と共に生きていく。そんなこと、とうの昔に決めているのだ。
コンビニからの帰り道、わちゃわちゃしている皆を追い越す謙也に手を引かれ、白石は民宿の入り口を急ぎ足で通り抜ける。あらあらどうしたの、なんて尋ねてくる女将さんには頭を下げるだけで説明のしようもない。俺の爽やかイケメンイメージをどうしてくれんねん、と呟きながら付いて行けば、謙也が開けた扉はオサムの部屋のものだった。大人の話がどうとか抜かしていた部屋の主はしばらく戻ってこないだろう。
「ったく、何やねん。告白か?」
「アホゥ、俺かて告白なら時と場所と相手を考えるっちゅーねん」
「そらそやろな。で、何なんや」
座布団の上にどかりと座り、謙也に話を促す。座布団は一枚しか見つからず、謙也は畳の上にじかに座ってから口を開いた。
「あんな……。さっきオーダー発表したやん。明日の」
「おん」
「自分、S3で行くん?」
「そう言うたやん……アレ、オサムちゃんだけの意見とちゃうで。俺も一緒に考えてんねん」
「そんなん知っとるわ、いつものことやんか。だから聞いてんのや」
「……何を言いたいのか知らんけど、俺はS3で行くで。恐らく不二やし、そうじゃなかったとしても初っ端は叩かなあかん。青学は今年勢いづいてるチームや、今日までと一緒にしたらあかんで。……あ、アイス溶けてまうやん」
コンビニの袋からバニラのカップを取り出し、ふちの部分が溶けてしまっている様に顔をしかめる。白石の言葉で自分のアイスを思い出したらしい謙也も袋からソーダバーを取り出した。
「うっわ、溶けるん早ない? 垂れる、」
「夏やもん、しゃーないわ。落とすんやないで」
「ちょ、タオルタオル!」
「自分のあるやろ……ああホラ! ……で、何やって?」
「ん?」
「ん? やないわこのヒヨコ頭。オーダーが何なんや」
「あー……。なあ、立海戦のオーダーも組んどるんやろ?」
「そらな。まあ、向こうさんの準決勝の状況みてから調整すんねんけど」
「どんなオーダーでいくつもりなん?」
「何やねん、気ィ早いで。そんなとこまでスピードスターでどうするんや。……せやなあ、D1はラブルスで行くで。D2に謙也と銀で、S3に俺、S2に財前、S1に金ちゃんやろな」
「S1は金ちゃんでええんやな? 自分、立海にはこだわっとったやん」
「今更やんか、ウチで一番強いの金ちゃんやで。……立海はS1に間違いなく幸村クンを持ってくる。ウチであいつに勝てる可能性があるんは金ちゃんくらいや。それに、初っ端で勝ち星上げたいやろから多分S3は真田がくるで。俺はあいつとやるわ」
「それで、ええんやな?」
謙也にしては慎重な確かめ方だった。確かに昨年、自分の番が回ることなく終わった立海戦について、白石はメンバの誰よりも執着している。今年こそ自らの手で三強を倒し、全国制覇を成すことを己に課している。その立海戦で大将を務めなくて良いのかと――金太郎に劣ることを認めて良いのかと、謙也が尋ねたいのはおそらくその一点だ。
正直に言えば、勿論悔しくて仕方ない。自分が金太郎よりも弱いということを理解していることと、それに納得することは別物だ。幸村と戦うのは自分でありたい。四天宝寺に君臨するのは自分でありたい。誰にも、金太郎にも、負けたくなんかない。天賦の才に努力が適わないなんてことを、決して認めたくない。白石は己が凡人であることを知っている、それが故の聖書テニスだ。天才に勝つために身に着けた唯一の武器が、金太郎のような溢れる才能に届かないなんてことを、決して認めたくない。
「……当ったり前やん」
それでも、白石は四天宝寺の部長なのだ。ならばやるべきことはひとつしかない。
「…………勝ったモン勝ちやで」
「……おん」
「今年は絶対金ちゃんまで回したらなあかん。去年の二の舞はせぇへんで」
せやな、と謙也は笑った。変なこと聞いて堪忍やで、と顔の前に立てた右手で謝る謙也に白石も苦笑する。
「で、結局何の話なんや。明日の話すっとばして立海戦のオーダー確認したかっただけとちゃうやろ?」
「うーん……。白石、千歳がおったらそのオーダー、どないした?」
「は? おらん奴の話したってしゃーないやん」
「でも、考えたことない訳ないやろ? 千歳のおる立海戦」
「そらまあ……。……財前と千歳を入れ替えやろな。ウチと向こうさんの準決の様子によってはD2いじるつもりやったけど。謙也と銀と財前、どの組み合わせで出すかやな」
「せやったら、千歳のおる青学戦は?」
「……謙也?」
どういうつもりやねんと問い掛ける白石を片手で制し、世間話やん、と謙也は笑う。教室でくだらない話をするときのような表情の謙也を、こんなポーカーフェイスできる奴やったやろか、と白石は訝しむ。
白石がアイスを掬うスプーンの動きをとめれば、謙也がスプーンを奪って口にする。バニラもうまいやん、なんてにやりと口の端を上げる謙也を殴り、白石はソーダバーに噛み付いた。
「そのひと口デカすぎやん。割に合わんで」
「ケチケチすなや。何が言いたいねん」
「……なあ、白石。頼みがあんねんけど」
あーあ、と白石は内心で溜息を吐く。この負けず嫌いなお人好しが何を言い出すかなんて、手を引かれたときからわかっている。親友としては認めがたい彼の頼みを、部長としての自分はあっさりと認めるだろう。軽い自己嫌悪に陥って、だからこそ会話を引き延ばしたというのに。
「勝ったモン勝ち、やろ?」
白石と謙也は、その言葉の意味を同じ深さで知っている。