きっかけは小学生の頃、夏休みの短期テニススクールに通ったことだ。
どこでどういう経緯があったのか、きらきらと目を輝かせた近所の幼馴染が財前家に乗り込んできた。あんな、光、テニスやろ! 身の丈に合わぬ古いウッドラケットを抱きかかえた金太郎が持参したテニススクールのビラに、財前はほんの少し感動した。体当たりが基本のこの幼馴染に、習うという発想があったのか。種を明かせばそれは彼の父の指南であったらしいのだが、その時の財前には知る由もない。とにかく常にない幼馴染の言動にうっかり反対する隙を逃したところ、あらいいんじゃない、というあっさりした母の一声で夏休みの予定は決まってしまった。折しも財前家には初孫が誕生したばかりであり、赤ん坊に夢中だった両親によって体よく追い払われたとも言える。金太郎をひとりでスクールに通わせるのもコーチが不憫で気が引けるから光くんに協力してもらおう、という遠山家の思惑を聞かされたのは随分と後になってからだ。結果として、当時からパワー溢れる野生児だった金太郎にコーチが大いに手を焼いたことを考えると、ストッパー役の財前を同行させた遠山家の判断は実に賢明であった。
このときの暴れっぷりによって金太郎はさりげなく出禁をくらったため(本人は気付いていない)、金太郎と財前がスクールに通ったのはこの一回きりである。それからは中学校に入学するまで、二人のテニスとは専ら野テニスによるものだった。コートとは公園であり、空き地であり、道路である。財前が最もヤンチャだった時期でもあった。
財前のテニスが金太郎と共にあったことは、幸運でもあり不運でもあった。ザ・器用貧乏たる財前はテニスも卒なくこなしたし、人より秀でている自覚があった。それと同時に、金太郎には敵わない、ということもまた年の割に聡い財前は悟っていた。金太郎がコントロールも何もないパワーだけのテニスをしていた頃こそまさっていたものの、彼のテニスがテニスらしくなった頃、これには勝てなくなる、と殆ど本能で気が付いたのだ。けれど聳え立つプライドによって金太郎のテニスに対峙してきた財前は、のちに起き上がりこぼしのようだとエクスタシーな先輩に評されるメンタルをこの時期に身に着けたと言える。
つまるところ財前のテニスとは、己の意地によって築き上げたものである。面白いか面白くないかと問われれば、勿論面白い(ただし、それを素直に言える性分ではない)。けれど好きか嫌いかで判断するよりも先に、テニスとは、プライドの発露であったのだ。
*
財前が何かを諦めるときの表情が嫌いだ。
中学に入学してからの一週間、金太郎は大いに荒れた。テニスをするために入学したようなものなのに、仮入部期間だからといって試合をさせてもらえない。本入部したところで一年生は当分の間基礎練がメインだと聞かされて、金太郎はすっかり学校テニスへの興味を失った。金太郎は欲求不満がそのまま暴力に繋がる直情的な性格で、学校帰りに絡まれたのをこれ幸いと気付けば近隣8校をシメていた。呆れかえった財前は金太郎の首根っこを引っ掴まれ、白石の前に差し出してこう言った。えらいすんませんけど、一回だけ相手したってくれますか。部活の中じゃなくても構わない、一試合きっちりやらなくても構わない、そう告げた財前の言葉のとおり、白石は部活後のコートで金太郎に3セットマッチの試合を提示した。金太郎は目を輝かせてそれに応じ、結果として白石をボコボコに叩きのめした。
整った顔にはっきりと屈辱と苛立ちを滲ませた白石は、それでも部長業を優先して金太郎に告げた。自分の強さはわかったけど、はじめっから特別扱いするわけにもいかん。部活中に試合させたるから、レギュラー全員倒してきぃ。そしたらレギュラーとして扱ったるわ。
おおきにおおきに! 喜び勇んだ金太郎が財前に飛びつけば、財前は金太郎をひっつけたまま白石に頭を下げた。その表情を間近でまじまじと見て、ああ、諦めたなと金太郎は思った。またなにかを諦めさせた。そのとき奪ったものが何なのか、金太郎にはわからない。天才と呼ばれる自負であったかもしれないし、レギュラーメンバ唯一の後輩ポジションであったかもしれない。あるいはもっと別の、財前が大事にしてきたなにかであったかもしれない。
財前が何かを諦めるときの表情が嫌いだ。けれど、最も許しがたいのは自分以外が財前から何かを奪うことだ。
ワイはずっと奪い続けるけど光はテニスをやめへんで。そう願う金太郎は己の傲慢さを自覚している。だからこそ白石たちに懐いたのだ。
財前が白石の試合を真剣に見詰めながらゲームを取るたびに小さくガッツポーズをしていることだとか、謙也と組んだダブルスで勝利したときにポーカーフェイスを装いながらもじゃれあったりすることとか、小春とユウジのお笑いテニスを何度見せられても必ずツッコミを返すところとか、そういうひとつひとつが金太郎にとっては新鮮で、そして、嬉しかった。財前が笑ってテニスをしている。口もとをほんの少し緩ませる、そんな不器用な笑い方しかできなくたって、財前は四天宝寺のテニスを楽しんでいた。金太郎はそれを、とても得難いことだと思う。財前だけでなく、誰にとっても金太郎は奪う側の人間で在り続けた。だからこそ、人に何かを与えることの難しさを知っている。
けれど、おもろいと楽しいと好きって一緒やないのん? いつだったか尋ねれば、財前はぶっきらぼうに金太郎に返した。おまえと違うてそない簡単にできとらんねん。簡単にできとる方がええやん、こてんと首を傾げた金太郎の頬を財前が抓る。少なくとも俺は今、テニスもおまえも嫌いやあらへんで。それで充分とちゃう?
全然、まったく、充分なんかじゃない。テニスを好きになってほしい。テニスを好きでいてほしい。財前から何もかもを奪い続ける金太郎の、一緒にテニスを始めた幼馴染への最大の願いなのだ。
*
千歳は金ちゃんと組んで一発芸なあ。そんな指示を出した顧問はいつの間にか消えていて、部員だけがやんややんやとコートを取り囲んでいる。ユウジが小春と組んで手繋ぎダブルスを披露してみせれば、何を思ったか千歳は金太郎を肩に乗せてダブルスを始めた。ラケットは金太郎の右手にあるのみで、千歳は金太郎の両足を押さえたままひたすら走り回っている。地面近くの球を打ち返すときはどうしたって千歳がしゃがまなければならないから、自然コミカルな動きになり部員の笑いを誘っている。なかなかやりおるな、とユウジはラリーを返しながら評価した。
勿論そんな調子では試合自体はユウジたちの圧勝で、負けてしもうたやん千歳! 金ちゃんすまんばいねー、と遣り合う二人は部員たちに囲まれて千歳が肩から金太郎を下ろす。すると金太郎は一目散に駆け出して白石に試合をせがんだ。本当に、テニスのためだけに生きているような野生児だ。
「お・つ・か・れ千歳クン! なかなかオモロかったでえ」
「自分、アレ肩凝らんの?」
「金ちゃんは羽のごたる軽さだっちゃ」
「言われてみたいわァ、その台詞……」
「浮気か? 死なすど?」
プレイ中は脱いでいた下駄に履き替え(怪我したらアカンやろ、と白石に止められたためである。笑いとるために門に顔面ぶつける練習しとる部長には言われたない台詞っすわ、とは財前の談だ)、からんころんと音を立てながら千歳が近付いてくる。ほんに二人は仲良かね、と素だか被せボケだかわからない返しにユウジは肩を竦めた。元ヤンのくせに何ポワポワしとんねん。
「……ああ、なんや白石結局試合してやるんか。あいつも金ちゃんに甘いなァ」
「ええんやないの? 火曜日やし」
オサムのお笑い講座(ボケ編)は既に終了しており、そこからの一発芸大会だったのだ。火曜日と木曜日はいつもこんな風にネタから始めて練習に移り、他の日に比べてメニューの自由度が高い。「常笑」を掲げる四天宝寺らしい日とも言える。笑われるのではなく笑かすということは、修練なしにできることではないのだ。
三人の視線の先では白石が謙也を、金太郎が財前をそれぞれ巻き込んでダブルスを始めている。白石と謙也は仲の良さの割にダブルスの食い合わせが悪いので、なかなか珍しい組み合わせだ。
「光くんは案外、うるさいのが好きなんね」
楽しそうな声に千歳を仰げば、あれ、と人差し指でコートの中を指さした。ぎゃーぎゃー喚いている金太郎にチョップをかましている財前は不機嫌オーラを発してはいるものの、好意的に見ればはしゃいでいると表現できなくもない。無意識なのかどうかは知らないが、財前は日常的にうるさい金太郎や謙也に寄っていく癖があった。何アレ? かわいない? 俺のこと大好きやんなあ! と謙也がぷるぷるしていたのは記憶に新しい。財前自身は口数の多い方ではないし、銀にも懐いているから静かなところが嫌いな訳ではないだろうが、甥っ子とも同居しているという彼が騒音に慣れていることは容易に想像された。ましてや金太郎の幼馴染である。
「そうなんよ、かわええやろ? ウチらの漫才にもちゃんと付き合うてくれるしな」
「切り捨てで終わるんやけどな」
「ツンデレやん、ツンデレ!」
ユウジと小春の夫婦漫才は基本、観客参加型だ。勿論二人でだってきれいにオチは付けられるけれど、第三者にツッコませた方がより面白い。知り合ったばかりの頃こそ財前はユウジたちから(主に小春から)逃げ回っていたものの、最近では確かに最後まで付き合うようになった。小春のボケにユウジが被せ、財前が冷笑と共にツッコむところまでがひとネタとなりつつある。
けれど小春が財前を褒めるのが面白くなくてぷくっと頬を膨らませれば、両隣から小春と千歳に人差し指でつつかれた。タコになったユウジの顔を見て小春がきゃらきゃら笑うから、些細なことはまあエエか、とユウジは流して視線を戻した。
「ちょお金太郎、引っ張んな腕もげる!」
「せやったらはよ来てえな!」
チェンジコートの合間に何やら作戦会議を始めた後輩コンビを警戒しつつ、3-2コンビも給水しながら何やら打ち合わせている。いつも澄ました財前が金太郎と一緒になって騒いでいる様は年相応で、物珍しい気分になるのだろう、小春も彼らを眺めて微笑んでいた。俺の天使。
「アタシ、金ちゃんが入ってきて安心したわあ。光もあんな表情するんやね」
「謙也は面白くないみたいやけどなー」
「あのめんどくさいコをあれだけ懐かせといて何言うてるんや。これだからB型男ってやーねー」
「こ、小春、俺もB型なんやけど……」
「小春もB型じゃなかと?」
「オトコて言うてるやろ!」
「……白石と金ちゃんもB型やち」
多かねー、ツッコまないことに決めたらしい千歳はそう笑った。小春の言葉に、ユウジは先日の謙也のぼやきを思い出す。一年掛けて詰めた距離、あっちゅー間に越えられてしもたなあ。正直無愛想な後輩との距離なんて詰める気にならないユウジは適当な返事で済ませたが、そもそも金太郎と財前の付き合いは一年どころではなかろうに、と少々呆れた。こんなアホに財前が懐いたのは白石の絶妙な采配のおかげでもあるやろなあ、抱いた感想は胸の内に留めておいてやっている。
「ほな、いっくでー!」
金太郎が大声を上げてぶんぶん腕を振り回す。ちょお、みんな逃げや! 叫んだのは小石川だったろうか。コートのすぐ近くにいた部員たちがわらわらと逃げる様に、ユウジは小さく笑みを漏らした。
*
「なんでテニス部に入ったか?」
切原の問いに首を傾げてから、下剋上したかったから、と日吉は答えた。愚問である。海堂はテニスが強くなりたかったから、と至極普通の答えを述べ、斜め下のベッドの財前を見下ろした。財前はフイと視線を逸らし、手元の携帯に落とす。末っ子気質だな、と自分のことは棚に上げて日吉は考える。協調性に欠け、気が乗らないことには無関心なタイプだ。
「なんでもええやん」
「なんでもいいなら答えろよー。俺は、先輩たちを倒したかったから!」
「真似するな」
「真似してないじゃん」
下剋上ってなに? と尋ねる切原をあほちゃうんと切り捨て、もうええやん、と財前は会話を丸ごと放り投げた。人と話す時くらいケータイやめろよと嗜める海堂に、うっさいねんオカンと財前は面倒くさそうに返す。
コーチ陣にどのような意図があったのかは知らないが、U-17合宿で205号室に集められた面子は皆世代交代したばかりの部長たちで、なんだかんだと話題は尽きない。部の方針、先輩たちへの愚痴、授業の進度、自主練の内容、学校自慢。たまにはこういうのも面白い、と思っているのが滲み出ていたようで、楽しそうじゃんか日吉? と向日にニヤニヤ笑われたのは昨日のことだ。そんな訳ないでしょうと返したものの、滅多にいない同じ立場の同輩たちと話すのはやはり、すこし高揚する。大抵話を切り出すのは切原で、海堂が受け、財前がまぜっ返し、日吉が締める。クールぶっている財前は自分の話こそあまりしないものの、周りの話を聞くのは嫌いでないようだった。ボケには被せボケかツッコミを必ず入れるあたり、大阪の血は色濃いのだと知る。
「四天宝寺はイイよなー。俺も白石さんみたいな先輩欲しかった!」
「ウチがええかどうかはともかく、自分、アレやろ。要約すれば褒められて伸びるタイプやったっちゅーことやろ? 明らかに入るガッコ間違うとるやん」
「先輩らは好きだぜ! でもおっかねえんだもんよー。立海に白石さんがいたらカンペキだったんだけどな、俺的に」
「あの人絶対浮きよるで……。あ、でもオカン属性やからな。真田さんとええ夫婦になるんとちゃう?」
「オカンと言えば今日柳さんにPSP取り上げられたんだけどさー。明日返してもらうからひと狩りしない?」
「ええけど自分何つこてるん」
「大剣だけど。財前は?」
「弓」
「おまえら合宿にゲーム持ってきてんのかよ……」
ゲームトークを始めた切原と財前に海堂が呆れ顔で溜息を吐く。そんな三人を眺めながら、なんだかな、と日吉は思った。三人の中で、日吉は財前だけを未だ測りきれずにいる。
財前は、どこを見ているのかがわからない。非常に不本意だが、自分と切原は目指すものが似通っているのだろう。切原が三強を見上げて走り続けたことと同様に、日吉は跡部の背中を追い越すために足掻き続けた。自分たちのテニスは追い掛けることを原動力にしている。対する海堂は目の前の敵に逐一全力で相対するタイプで、唯一明確な敵がいるとすればそれは同輩の桃城なのだろう。ならば、財前は?
彼について語れる程日吉は財前を知らない。大会中は話などしなかったし、財前という人間をきちんと認識したのは合宿が始まってからだ。しかし付き合いは短期間でも、密度の濃い日々を送る中で互いの性格はそろそろわかってくる頃だ。山籠もりの後の同室で日吉はそれなりに財前を知りつつあるが、彼は誰かを倒したい、という欲求の見えない男であった。
トレーニングはそれなりに真面目にこなしている。かったるそうな表情はするものの、特に不満があるようでもない。けれど彼は、上に這い上がるための試合をしようとはしていない。これだけ我の強い集団だ、自ら強く望まなければ試合のチャンスなど巡ってこない。その椅子取りゲームに参加しようとしない財前は、合宿の中でひっそりと浮いているように見えた。
財前が試合を望まない理由を、この合宿をはじめは断ったという理由を、日吉と海堂は薄々勘付いている(切原は財前が途中参加だということにすら気付いていない恐れがある)。全国大会で岡蔵戦は圧勝、不動峰戦は試合なし、青学戦は例の変則ダブルス。地方大会の様子は知らないが、全国で財前は一度たりとも本領を発揮していない。つまりは一年前の白石と同じ、全く実力の窺えない状態にある訳だ。
けれど、隠すことが何になる、と日吉は考える。中学生など発展途上だ。今日のテニスと一か月後のテニスは全く別物になっているかもしれない。そんなものを大層に隠して何になる。そもそも本気を出して格上の相手と戦っていかなければ、己の成長は望めないではないか。
そこまで考えて、ふと日吉は思い至る。――もし、己の成長を望んでいないのならば? あるいは、望んでいるのが己の成長ではないのなら?
「…………よし、日吉! どうした、ぼーっとして」
「……ああ、いやなんでもない」
「疲れたんじゃねーの?」
「このくらいで疲れてたまるか。考え事だ」
「問題ないなら電気消すぞ。消灯時間過ぎてるからな」
横着した切原が二段ベッドの上から上半身を乗り出してスイッチに触れた。しばらく経ってから寝返りを打った日吉はふと、向かいのベッドの財前を見遣る。携帯のディスプレイが光を発していて、起きていることは明白だ。上からは切原のイビキが聞こえるが(彼は毎晩おやすみ三秒だ)、海堂が起きているかどうかはわからない。小さな画面が発する眩しさに苛つきながら目を細め、文句を言おうと口を開いた。なあ財前、おまえって何でテニスやってんの。言葉になったのはまったく違う台詞で、自分で面喰えば財前が振り向く。面倒臭そうな表情を隠しもせずに、けれども躊躇うこともなくぶっきらぼうに彼は答えた。決まってるやん、勝つためや。
おまえにとっての勝ちって何なんだ? その台詞は内心に留め、そうか、とだけ呟いた。日吉はついぞ、その問いを投げ掛けることはしなかった。
*
「……なにしとるん自分ら……」
謙也はらしくなく溜息を吐いた。3年2組の4限は美術で、校内の好きな場所で写生をせよとの指示だ。美術に思い入れもなし、適当に仕上げて終わらせるべく謙也は裏山に足を延ばして場所を確保しようとした。すると初冬の日差しのなか、すよすよと眠っている大小の見慣れた姿に肩を落とす。大小は言い過ぎやろか、ほなら大トトロと中トトロ? 適当な語彙を探しながら、なにやってんねんホンマ、今普通に授業中やで、声に出して起こしてしまった謙也に非はない。
「あー……、なんや謙也さんやないですか」
「なんややないわアホウ。何しとんねん」
「見たらわかりますやろ。寝とってん」
右目を擦りながら財前が丸まって寝転がっていた体を起こす。その隣で気持ちよさそうに眠り続ける千歳は未だ、起きる気配がない。
「自分、授業は?」
「自習やもん。プリント提出してきましたよって、問題ないやろ」
「千歳は?」
「知らへん。俺がここに来たときにはもう寝とりました。この人昼寝スポット見付けるのホンマうまいねんで。隣陣取っておけばまず間違いなくぽっかぽかやわ」
「しょーもない特技やねんなあ……」
ほら千歳、いい加減起きィ。巨体を揺さぶれば、あ、と財前が間抜けな声を上げた。なんやねん、振り返れば微妙な表情をした財前が、謙也さんがええならええですけど、と言葉を濁した。面倒臭さと呆れとからかいをミックスしたような表情だ。
「……まだ眠か……」
「ねむか、やないねんもう昼やでドアホウ。今日自分ちゃんと教室顔出しとるんか」
「……うるさか……」
「ええ加減にせんかい!」
「……そっが大声出さんでも聞こえとるけん黙らんかい。神隠すぞコラァ!」
「ッ」
ドスの効いた低音に思わずびくっと反応すれば、傍らの財前が肩を震わせて無音で笑っている。何やねんこのチンピラ、ちゅーか神隠しってそういう使い方できるんかい、いやいや何やねんこのヤンキー、元ヤンとちゃうやん今ヤンやろ……!
「千歳先輩寝起き悪いんすわあ」
「え、でも合宿のときとかそんなイメージなかってんけど」
「昼寝を邪魔されるんが嫌いて言うてましたよ」
「……自分も起こしたことあるん?」
「金太郎が起こした時、隣におったんすわ」
「えー……。金ちゃんどないしたん」
「逆にメンチ切りよったで。『約束やぶったん自分やろが、何言うとんねんシバいたろか』っちゅーて」
「うわあ想像できるわあ……」
千歳が元ヤン(たぶん)ならば、金太郎は現役ヤンキーである。自分それ、隣で聞いてて平気やってん? 尋ねれば財前はしれっと返した。うちの兄貴元ヤンやったんすわあ。
「ええ? いっぺん会うたことあるけどオモろい感じの人やん」
「子供できてから丸くなってん」
「ああ……おるな、そういう人。……ちゅーか千歳、結局起きへんのかいな」
「ええんとちゃいますかあ。卒業する気ないんやない?」
「義務教育っちゅー話やで」
軽口を叩きながら、卒業という単語にどきりとする。同級生と話すよりも、後輩たちと話す方がよりリアルな単語だ。同い年の仲間たちとはお互い前に進むだけだが(そもそも謙也は白石や小石川と志望校が被っている)、後輩との間には明確に置いていく、置いていかれるの壁がある。
「……財前、高校行ってもテニス続けるん?」
「……それ、聞くんは俺の方とちゃいますか。どんだけスピードスターやねん、俺まだあと1年あんねんで」
「そら知っとるけど、ええやんか。どうせ決めてるんやろ」
「フツウ中二では決めへんで。ちゅーか仮に決めてたとしても謙也さんには教えたりません」
「え、なんでや。俺らダブルスの仲やんか」
「あんたがそれを言うん?」
呆れた顔で肩を竦める財前にデコピンをかませば案外痛かったらしく眉を顰めている。謙也さんのくせに何すんねん、可愛くない台詞を吐いた後輩は両手をぐりぐりと謙也のこみかみに押し当てる。髪キッシキシやで、そう言って笑う財前の頭を撫でてやったら振り払われた。この捻くれ者は淋しいときに、よく笑う。
「……なんで言いたないん?」
問い掛ければ財前は目を細め、口の端をほんの少し持ち上げる。悪い顔だ。
「……ひみつ」
そんなことを宣う後輩にもう一度デコピンを喰らわせる。財前はあとの付いた額を押さえ、横切る北風に小さく身を竦めた。
*
おまえが大阪で年越しするんなんて、一生でこの一回きりかもしれへんのやでえ。
白石と謙也にそんな風に押し切られて、千歳は年末年始の帰省をキャンセルした。母親に電話したら呆れられたけれど、あと数ヶ月で大阪を離れることになる自分を思い遣ってか、文句を言われることはなかった。そして男子テニス部旧レギュラーによる大晦日の宴会場となった千歳の寮の自室は、年が明けた今でもごろごろと人が転がっている惨状であった。
昨夜はみんなで鍋をつついて、それからタコパに移行した。酒は入っていないはずだが、みんなで年越し、にはしゃいだ金太郎が暴れまわり、白石と財前でそれを抑えていたはずだ。日を跨いでから近所の神社に初詣に行って、そのまま全員でこの部屋に戻ってきて爆睡し、今に至る。千歳はゆたんぽ代わりに金太郎を抱き込みブランケットを羽織っていたが、つるりと滑り込んできた冷気に目を覚ましたのだ。ベランダへと繋がるサッシが僅かに開いていて、この寒い中物好きな、と見遣れば財前がひとり、ベランダで手すりに凭れて外を眺めている。寒さに弱いくせに、珍しい。
上着も着ないままでは風邪を引くんじゃないだろうか、と千歳が起き上がろうとすれば、目が合った白石に視線で制される。周りを見渡せば小春とユウジ、銀、小石川はまだ眠りの中にいて、謙也が白石と共に立ち上がるところだった。二人が行くなら心配いらんばい。そう思って千歳は金太郎を抱えたまま視線だけを外に向ける。
「なーに黄昏とんねん! まだ朝飯前やでえ?」
「風邪ひくで? これでも羽織っときィ」
白石は開けたサッシを少しだけ隙間を残して閉め、財前の肩に自分が先ほどまで使っていたブランケットを掛けた。白石自身はコートを、謙也はダウンを着込んでいる。
「……すぐ戻るつもりやってん」
「でももう長いことおるやろ」
「見てたん? 趣味悪いっすわあ」
「うわ、めっさ冷えとるやん!」
白石が財前の掌をぎゅうっと握る。財前は眉を顰めたが、実際寒かったのか白石の手を振り払うことはしなかった。それを見た謙也が財前の背にのしかかるようにして抱きついた。謙也さん重い、そう不満そうに告げたものの、財前はやはりされるがままだ。
「……ん? アレ、自分、泣いとったん? 目ぇ潤んでへん?」
謙也が尋ねれば、白石が馬鹿なやっちゃな、と表情で語る。多分白石は最初から気付いていただろう。
「ハァ? 泣いてへんし。アンタの目が悪いんとちゃいますか」
「自分は相変わらず口が悪いねんな!」
財前は覗き込む謙也から顔を背け、白石に正面から抱きついた。珍しい財前からの接触に、なんや、と白石は笑い声を上げる。
「なんやねん、デレ期かいな」
「そのツンデレ設定ほんまやめてくれません? 寒いだけや」
「どう考えてもツンデレっちゅー話や。デレ少ないけどな!」
「財前ほんま冷やっこいねんな。体調管理も仕事のひとつやでえ、あったかくせなアカンやろが」
「部長ぬくいっすわー」
「俺は?」
「謙也さんはあっつい」
「態度悪ない? ちゅーか白石と扱いが違わん?」
「いつものことやんけ」
二人にぎゅうぎゅうと挟まれて、財前は白石の肩に額を押し付ける。せんぱい、と呼ぶ声に、ん? と白石と謙也が同時に返事をする。
「俺、あんたらとするテニス、好きでした」
なんでもないような声で言おうとしたのだろうそれはやっぱり失敗して、震えたように聞こえるのがいとけない。顔を見合わせた先輩二人はめいっぱいに破顔して、財前の黒髪をぐっしゃぐっしゃに掻き回す。俺らも大好きやっちゅー話やねん! 弾むような声に財前が顔を上げられるはずもなくて、白石にしがみ付く腕に力が籠る。かわいいやっちゃなあ。笑んだ声色に、冷えた耳が真っ赤に染まる。
千歳はゆっくりと瞼を閉じた。きゅうっと拳を握りしめた腕の中の金太郎の頭をそっと撫でてやる。
眼裏には、幸せの光景が焼き付いている。