欲しい物を手に入れるために生まれてきた。
 望んだものを得られなかった経験がない。不幸という概念をいまいち理解しきれていない。それは金太郎が心から望むものが数えるほどしかなかったがためでもあるが、第一の要因はやはり、生まれ持った強運が所以に違いない。負けというものを想定したことがなくて、勝ち取ることこそがごく自然であった(主人公補正やな、とは財前の談である)。
 金太郎は己の才能を自覚している。正確に言えば、自分にできて他人にできないことが多々ある、ということを自覚している。それは幼い頃からの数々の失敗談(つまりは他人を傷付けた経験の数である)から学んだことでもあったし、財前が数年間掛けて教え込んだことでもあった。おまえがそういう生き物なんはしゃーないわ。せやけど馬鹿なのはやめえ、腹立たしくて傍になんかいられんねん。そんな風に言い切る遠慮のない幼馴染を持ったこともまた、僥倖だったと言える。
 金太郎にとっての不運は、対等な相手に長らく巡り会えなかったことだった。幼い頃から財前としてきたテニスは楽しかったし、四天宝寺に入学してから白石や千歳たちとするようになったテニスだってわくわくする。けれどそれでも金太郎は力を出し切ったことがなかったのだ、越前リョーマに出会うまで。どこに打っても、どんな球を打っても、ずっとボールが返ってくる。それがどんなに幸せなことか知っている人間は、世の中にどれだけいるのだろうか。
 戦うこと、勝つこと、全力を尽くすこと。金太郎は、それだけのためにテニスをしている。







「優しないなあ」
 ベンチの背に両腕を引っ掛け、ふんぞり反ってユウジは呟いた。隣に座る、一年の3/4を萌え袖で過ごす後輩が胡散臭げに振り返る。
「……なにが?」
「自分とあいつやん」
「俺がやさしかったらキモいですやろ」
「せやな。……けど自分、タイミング計っとったやろ、お披露目の。えげつないわあ」
「勘繰り過ぎとちゃいますか」
 ユウジと財前が見据える先では白石と入学したばかりの一年坊、金太郎がコートで試合をしている。明らかに白石が押されているこの展開は、観ていて正直楽しいものではない。部活は既に終了しており、この時間帯は常なら自主練をする人間が僅かばかり残っているような頃合いだ。試合をしている二人と自分たちの他には、コートを挟んで向かい側に小石川と千歳が残っているのみだった。小春は家族の用事に付き合うと言って父親の勤務先の大学へ出掛けてしまったし、いつもならこういう時、最後まで残りそうな謙也は今日は軽音部に顔を出している。
 人がまばらなこの時間帯を見計らって財前は試合を仕立てたのだろう。そしてそれは白石にとてひどく屈辱的であるはずだった。つまりはこの後輩は、端から白石の敗北を予想していた訳だ。
 コートの中で金太郎は楽しげにラケットを振り回す。ラケットって武器になるんやなあ、そんなことをユウジは思い知らされた。白石だから打ち返しているものの、普通はあんなものを受け続けたら腕がいかれるだろう。小さな体から放たれるパワーは凄まじかった。
「容赦ないやっちゃな。自分もやけど、敵作るでえ、あいつ」
「ええんやないですか。あれ、嫌われるのは慣れてますねん」
「あァ?」
「好かれんわ、あんなん」
 あんなん、存在自体が暴力ですやん。そんな風に言い切るくせに、財前の視線は金太郎に固定されたままだった。目ェ奪われながら言うこととちゃうで、よっぽど言ってやろうかと思いながらユウジもまたコートを見遣る。肩で息をする白石なんて久し振りだ。
「何がしたくて連れてきたん?」
「放って置くのも勿体ないですやろ。即戦力っすわ」
「せやから、あれをどうしたいのかなんて聞いてへんて。何がしたいんや自分」
 舌打ちと共にピアスごと耳を引っ張ってやれば、大げさに振り払われて威嚇される。猫科のような生きものだ。
「……許せへんのです」
「何が」
「俺はあれがテニスを捨てるんは認めへんし、あれがテニスに捨てられるんはもっと認めへん」
 財前は真っ直ぐに金太郎を見据えている。クールぶっているところのあるこの後輩は案外心情を目で吐露するタイプで、それを知っているレギュラー陣からは可愛い可愛いと撫でくり回されている。ユウジは小春以外の男の頭なんて撫でたいとは思わないし、財前の心情などには興味なんてないけれど、あいつらが構いたがるのもわかるなと思う。憤ることでしか賞賛できない、とんだ捻くれ者だ。
「あれに打ちのめされるんが俺だけなんて、許せへんのです」
 ほーお。にやついた声音で笑えば鬱陶しそうな視線を投げられる。財前が嫌がる笑い方のまま肩を組んで耳元で囁いた。
「蔵の負けるとこ、見たかったん?」
「……ハッ」
 腹の立つ程冷笑の似合う男だ。財前は肩に回されたユウジの手の甲を抓って口の端を上げる。
「あんたらがあの人の負けるとこ見たないのと同じくらい、俺、あれの負けるとこなんて見たないんすわ」
 自分だってちょっと引くくらい白石のテニスが好きなくせしてそんなことを宣う財前の言葉は彼の想いの深さを知らしめる。難儀やなあ、ユウジは心の中で呟いた。財前も白石も、どうしようもないくらい面倒くさい。生意気なところがあっても元気で明るくて真っ直ぐな後輩、なんて好みドンピシャのくせにぞっとするほど冷たい目をして金太郎を見据える白石を見遣り、あほやなあ、ユウジは小さく溜息を吐いた。







「金ちゃんも行ってきてもええんやで?」
 全国大会決勝戦、次々と越前の元へ向かうライバルたちを見送って、白石はそう声を掛けた。金太郎は少し考えてから首を振り、行かんで、と白石を見上げる。その真っ直ぐな視線に白石はことりと首を傾げる。
「せやかて、コシマエ君に勝って欲しいんやろ? 今みんながやっとる方法がホンマに有効なら、金ちゃんとの試合で思い出すもんはデカいんやないか」
「ワイ、それよりせなあかんことがあんねん」
 そう言って金太郎はコートに視線を戻す。D1の試合は佳境で、直に決着がつくだろう。そうすれば後は、幸村と越前の試合を残すのみだ。
「なあ白石、知っとるやろ? 戦わずに負けたらあかんねんで」
「……金ちゃん」
「絶対、絶対、あかんねんで。後悔するんやで」
 白石は金太郎の頭に手を置いた。その感情を白石は深く深く知っている。だからこそ金太郎にその想いをさせたくなかったのだけれど、と唇を噛み締めた。青学戦で白石だけは勝利を収めた、だがそれが何だと言うのだ。チームに一勝をもぎ取ったところで、チームが勝たなければ意味がない。白石は準決勝の敗戦の一因が、己の采配にあったと考えている。皆の前で言えばやれ傲慢だと言われるだろうが、部長なんて傲慢なくらいで丁度良い。
「なあ白石、ワイ、あいつに後悔させたない」
 あの一球勝負は金太郎に何をもたらしたのだろうか。これまでになく瞳を輝かせてボールを追い掛けた金太郎には、越前がどのように映ったのだろうか。ごめんな、と白石は思う。これまで本領を発揮させてやれんくて堪忍な。全力を受けとめてやれんくて堪忍な。
 すう、と白石は息を吸い込む。どろどろと渦巻く悔しさとか、己に対する怒りとか、そういったものをごくりと呑み込む。すごく憎らしくて、すごく可愛らしい。白石にとって金太郎とはそういう存在だった。
「ええよ、金ちゃん。やりたいようにやったらええで」
 俺が取れる責任は取ったる。俺に取れん責任はオサムちゃんに取らせたる。そう言葉にしながら、多分笑えただろう、と白石は顔面の筋肉を評する。
「おおきに!」
 破顔した金太郎の背中を押してやると同時に審判が試合の終了を告げた。ベンチで足を組む幸村に、アリーナ中の視線が集中する。
「ほな、行ってくるわ」
 ずるいな、と白石は思った。羨ましいわ、幸村クン。その役は俺がやりたかったんやで。
 隣の千歳が目を細める。同じことを考えているのだろうと白石は思った。金太郎のテニスについて、それが白石と千歳が全く同じことを考えた数少ない事柄だ。なあ金ちゃん、自分は確かに俺らより強い。せやけど挫折を知らん人間なんか、これっぽっちも怖ないんやで。せやから俺らは、金ちゃんに勝ちたかった。
「なあ、コシマエなら――」
 大きく声を張り上げた金太郎が立ち上がり、見上げた眩しさに眩暈がする。太陽を独り占めするために生まれてきたような男だ。
 白石はぐっと拳を握った。行って来ぃ金ちゃん、言えるのはそれだけだ。
 あとはただ、抱き締める準備をして待っている。







 全国大会が東西ルーキーズに与えた影響は計り知れない。
 まず、天真爛漫なゴンタクレにトラウマができた。「オイタが過ぎると幸村呼ぶで」は対金太郎武器として毒手よりも使い勝手が良いと白石以外に重宝されるようになった。ワイ宗教なんて絶対信じへんで! と叫ぶ金太郎はそろそろ宗教界に謝るべきだが、まあ害はないからええか……と先輩たちに放置されたまま現在に至る。因みに金太郎には己の学校が仏教に属しているという自覚はない。
 合宿所で幸村を見掛ける度白石の背中に隠れるわかりやすい金太郎のトラウマは広く認知されていたが、その陰で越前もまた、こっそりとトラウマに苛まれていた。「ちゃうちゃう♪ それは越前やあらへん♪」と妙に頭に残り、かつ自分を全否定するフレーズが夢で流れた翌日は、決して四天宝寺の面子と顔を合わせることなどしない。ホントの俺ってなんだっけ……と遠い目にもなろうというものである。そもそも四天宝寺と越前の間には特に縁も何もない。とんでもないスーパールーキーや、くらいの印象は持っているものの、四天宝寺のメンバにとって越前とは基本的に「金ちゃんの友達」扱いである。そんな彼らに偽物扱いされた越前には怒る資格があると思われた。
「謙也さん、」
「ん? なんや越前、これも食うか?」
 そんなマイナスイメージからの出発でありながら、東のルーキーを懐かせた謙也の手腕はなかなかのものである。U-17合宿所のラウンジで昼食を摂りながら、銀は少し離れた所に座る越前と謙也、田仁志の組み合わせを眺めてしみじみとした。流石は兄貴スキルSの男やな、と銀が呟けば、せやけど詰めが甘いでえ、と隣の白石が交ぜっ返した。銀と白石の正面には、ふてくされた財前と金太郎が座っている。正確には、財前はふてくされているもののポーカーフェイスを気取っており、金太郎は面白くない、という心情を全身で表現している。
「一晩で余所の後輩たらしこんでくるとかやりおるわあ」
「ワイ、コシマエに一緒に飯食お言うたら約束あるから言うて断られたんやでえ」
「バランス磨いたっちゅー話しとんのに、あの人ができるようになったんて敵の背後に回り込む、とかやろ? バランス関係あれへんやん」
「ぎょうさん友達作っとけ、言うたん謙也なんやけどなあ。テニスって敵の背後に回り込んで何するん?」
「知らんわ、忍足先輩に聞いたらええんとちゃう? 俺らの質問に答えてる暇があるのかは知らんけど。越前の次は桃城たらしこんどったし」
「桃色? はどうでもええけど、謙也のくせにナッマイキやなー」
 実に可愛らしい後輩たちの遣り取りに銀はほこほこした気持ちになる。隣では白石が下を向いてぷるぷるしていた。今にも拳をテーブルに打ち付けそうである。俺らの後輩マジかわいい、やけど謙也は許さへん……! そんな文字を白石のバックに読み取って、銀は静かに合掌する。とりあえず、向こう二週間くらいは財前、忍足先輩って呼ぶんやろなあ。近い将来に目撃するだろう謙也の土下座を思い浮かべて、銀はひっそりと笑みを浮かべた。







 中学校の卒業式は、桜の時期には少し早い。けれど梅はもう散り際で、中途半端やんな、と謙也は思う。結局のところ自分たちのような男子中学生なんて花より団子なのだから、梅が咲こうが桜が咲こうが然程気になんてならないのだけれど。
 だんご、で後輩たちのおやつ戦争を思い出し、によによしてしまったところで勢いよく背中を叩かれる。顔歪んでるでケンヤー、なにやらしーこと考えてんねや? そんな風にからかってくる級友たちにちゃうわと返し、少し離れたところに白石を見付け写真を撮る輪の中から外れる。女の子に囲まれている白石の肩を叩けば、一緒に撮っていい? と目元を赤く染めたクラスの少女に声を掛けられる。俺もなかなかもてるやん、と二つ返事でOKすれば、何故か白石と謙也の2ショットを撮られて驚く。最後に3-2ホモショット撮れて良かったわ、おーきにね! はにかみながら礼を言うクラスメイトにホモちゃうわと叫ぶものの、えーやんなんでも、と笑われるだけで躱される。
 少女たちに別れを告げて白石と二人歩き始めれば、こらえきれないと言うように白石が笑い出す。
「良かったなあ謙也、自分、あの子のメモリーカードに俺との2ショット残るで」
「どあほ! 道連れやろが」
「俺はあの子との2ショットも撮ったでー」
「イケメンは滅んだらええんや……」
 げんなりと謙也が呟けば、笑いながら白石は前方を指さす。通い慣れた部室の前では、後輩二人がみたらし団子とつぶあん団子を分け合って食べている。彼らの傍らにあるラケットバッグが謙也の淋しさの琴線にそっと触れた。
「なんやなんや、期待を裏切らんやっちゃなあ。なんで団子食べとんねん」
「式出とったら腹減ったんやもん!」
「どうせみんな来るまでには時間掛かるやろて、裏の団子屋行って来たんすわ。こんな空気じゃ部活もよう始められんし」
「おーおー、部長らしなったやんけ」
「とっくやわ。今頃なに言うてんねん」
 団子を食べ終えた財前が缶しるこを流し込んだ。いつ見ても胸焼けのするあんこ攻めである。
「なあ光、先にコート入ってたらあかんのん?」
「別にええけど、師範と写真撮らんでええんか? あの人の行くとこブレザーやから、学ランの師範拝めるん最後やで」
「んー、じゃあ待ったるわ!」
「俺らもブレザーやねんけど?」
「あんたらはどうせ学祭とかでチャラチャラとコスプレするやないですか……」
「扱いの差!」
 先輩の卒業式で泣く、なんて可愛らしいことを彼らに期待なんてしていなかったけれど(ええかっこしいの財前はこういう時に絶対泣かないし、金太郎が淋しがったのは卒業よりも引退である)、あまりの通常運転に肩透かしを食らう。ぶちぶちと文句を垂れれば財前が馬鹿にしたように笑った。
「そんなに淋しいんなら来年も観に来たってもええですよ。俺らの全国優勝」
「言われんでも観に行くっちゅー話や!」
「楽しみにしてるで。頑張りや」
「任しときい!」
 おいしいトコ、光には譲らんでえ! そう言って金太郎が花火のように破顔する。謙也の隣で白石が眩しそうに目を細めた。ぴょんぴょんと飛び跳ねる金太郎の頭を謙也もぽんぽんと撫でてやる。
 たった一年。彼と共にテニスをした期間なんて、事実上数ヶ月だ。それでも謙也は、この嵐のような生きものと戦った夏を決して忘れないだろうと思う。
 彼だけに頼った訳ではない。彼だけが特別だった訳ではない。彼よりも長く、深く、共に走り抜けた仲間がいる。
 それでも金太郎は、自分たちのヒーローだったのだ。