背中に突き刺さる視線を知っている。
目は口ほどに、とはよく言ったもので、謙也の知る限り財前という後輩は、言葉よりも視線で本音を語る人間だった。生意気な台詞ばかり吐き捨てる癖にじっとこちらを見上げていて、視線を逸らされるのを恐れている。構いにいくと振り払われるのに離れてみれば後頭部が焦げ付く。そういった不器用な仕草のひとつひとつを可愛いと思うし、実際に同級生の誰よりも彼を可愛がってきた。ちょお、構いすぎやでえ。そんなことを親友に言われながらも財前の頭を撫でくり回すのをやめなかったのは、ひとえにその視線を独り占めするのが心地よかったからだ。
けれど彼の視線が「先輩」へと向けるだけのものではなくなりつつあることに気が付いて、謙也ははたりと想いを巡らせた。財前から向けられるものが謙也の予想通りだったとして、そうしたら自分は何を返せば良いのだろうか。
財前のことは好きだ。それが後輩に向ける好き、を逸脱しつつあることも自覚している。財前が己に向けるものと自分が彼に向けるものは限りなくイコールに近いのだろうと思う。帰り道に指先が触れた時、ぴりりと走る電流を知っているし、ダブルスの試合で勝った時、彼が見せる笑顔に跳ねる心臓を知っている。だけど――だけど、彼が望むものを返して何になる?
そんなことを考える時点で恋愛じゃないと思った。恋愛にしたくないと思った。恋人なんかじゃなくて、だけど普通の先輩後輩でもなくて、名付けようのない特別な関係。そんな関係にときめいて、だからこそ財前の視線に気が付かない振りをした。
「ほんまめんどいやっちゃなあ」
「えーやん。今楽しいし」
「多分財前はあんま楽しくないで……」
「ええ? 片思いって楽しくない?」
「キャラ考えてみぃや、そういうん楽しむ奴とちゃうやんか」
「えー……」
自習中の教室で、謙也の前の席の女の子に微笑みひとつで譲らせた白石は、ほんまもんのアホやなあ、と深い溜息を吐いた。白石君に笑い掛けられてしもたときゃいきゃい騒ぐ女の子たちを見て、世界はイケメンで回っている、と謙也は思う。自分だってそこそこいけてるはずなのにどうやったって霞むのは絶対に白石のせいだ、というのが謙也の自己評価だ。
「あ、財前やん」
「え? ああ……かったるそうに動いとるなあ」
窓際の席からグラウンドを見下ろせば、2年7組は体育なのか、ジャージ姿の財前がてろてろと準備運動をしている。ソフトボールの授業らしく、生徒たちの近くには白いボールが籠の中に山積みになっていた。
「せやかて自分、なんかこう、ないん? 手ぇ繋ぎたいなーとか、キスしたいなーとか、そういうん」
「あるで」
「あるんかい」
「あるけど、あいつあんまそういうん得意そうやないしなあ。下手に付き合うてぎくしゃくするより、わだかまりなく抱きつける方が良うない?」
「んー……、んー……? まあええけどな、野暮なことするつもりないし。けどもうそんなに会う機会もないやろ、引退してもうたし」
「財前が当番の日は図書室で勉強しとるもん、俺」
「タチ悪いわあ……」
癖になっている謙也のペン回しを眺めながら白石が呟いた。会いに行っとるんやで、健気やん俺。謙也の台詞には無言が返る。むう、と膨れて窓の外を見遣れば、校舎を仰ぐ財前と目が合った。へらりと笑って手を振ってやれば、げ、とあからさまに嫌そうな顔をされる。そんな顔をしてみたところで、3年の教室を見上げているあたり、彼の思考が窺い知れる。可愛くない後輩だ。
「あーあ……。可愛い後輩弄びよって」
「弄んでへんわ。俺なりの愛し方ですう」
「知らんでー、よそに持ってかれても」
「え、それはないやろ。やってあいつ、俺んこと大好きやん」
「腹立つ台詞やな!」
笑いながら言った白石もまた、財前がよそを向く、なんてことを信じてはいなかっただろう。それくらい財前は謙也に懐いていた。
謙也と財前のそういう曖昧な関係は謙也の卒業まで続いた。意地悪をしているつもりなんて毛頭なくて、謙也流にめいっぱい、本気で可愛がったつもりだ。財前が自分だけに見せるふてぶてしい態度とか、隠れたように笑う姿とか、逸らされない視線とか、そういう彼らしい甘え方が愛しくて心地よくて、とても好ましかった。卒業くらいでこの関係が壊れることもないと思ったし、壊したくないとも思っていた。謙也がいなくなることを淋しがってくれるのならば、いっそそのくらいの方が良い。
なにひとつ変わることなんてないと、そう信じていたのだ。
*
財前が眉を寄せるとき、その先に何を見ているのか知っている。
「あっつ……」
「暑いっちゅうかじめじめしとらん? 気持ち悪いねん」
「そら梅雨やからな……今朝も降っとったやん」
「また一雨来るんかなあ。傘持ってへんねんけど」
「なんでおまえはこの時期に傘持たへんのや」
府大会決勝を明日に控え部活をいつもより早めに切り上げた財前が、金太郎と共に部室の窓から空を見上げる。部室に残っているのはこれから軽く自主練で調整するつもりの二人だけだ。厚い雲に覆われた空はまだしばらく持ちこたえそうだが、明日の天気が心配な雲行きだった。雨は降らん言うとったで、と背中に財前の声が掛かる。
「ほんま?」
「天気予報ではな。何にせよ、俺らが気にしてもしゃーないわ」
「せやな! てるてる坊主作るくらいしかできんな!」
「……作るん? この年で?」
早速部室のティッシュボックスから数枚引き抜いて丸め始めた金太郎を、財前が心底呆れたように見遣る。小上がり(敷き詰めたビールケースの上に柔道部から貰った御下がりの畳を敷いただけの代物だ)に座って作業を始めた金太郎の隣で上半身だけ寝そべって、財前はかちかちと携帯をいじる。
「……あ、来るって、先輩ら」
「誰? 白石?」
「白石先輩と……面子書いてないけど、四天高の皆とちゃうん。そんな感じやわ」
「久し振りやなー」
白石と謙也、ユウジ、小春、小石川。つまり熊本に帰った千歳と東京に戻った銀を除く旧レギュラーメンバの先輩たちは皆、四天宝寺高校に進学している。そこそこ進学校の割に部活も盛んやからちょうど良かったんとちゃう、とは財前の談だ。
「白石たちも強なっとるかなあ」
「知らんわ。つか先輩らと戦うんとちゃうで、敵間違えんな」
「わかっとるって!」
できた! と声を上げ、即席てるてるぼうすを窓際に吊るす。あほらし、と呟いた財前の隣で携帯が震えた。仰向けに寝転がったまま携帯を開く財前の手元を覗き込む。
「あ、ほんまに皆来るんやな」
「ちょお、邪魔すんなや。……府大会くらいで来んでもええのに」
「えー? 来た方が楽しいやん。試合終わったら付き合ってもらおや、ラケバ持ってこい言うといて!」
「飯でも奢ってくれるつもりとちゃうん」
「ほなたこ焼きのあとでコート行けばええやん」
「せめてお好み焼きにしようや……」
二人とも、負ける気はこれっぽっちもしていなかった。油断はしていない、侮ってもいない、けれど昨年に引き続き関西は四天宝寺の独壇場だ。3タテは殆ど義務のようなものだった。
どっかに強い奴おらんかなあ。そんなことを呟けば、財前の掌の中で再び携帯が唸りを上げる。ぱく、と財前が開いた画面に表示された名前は謙也のものだった。白石からだと思っていたのだろう財前がびくりと反応するのがわかって、仕方ないから画面から顔を遠ざけて扇風機に向かってやれば、ぷちぷちとボタンを押して財前がメール画面を開いたようだった。
「謙也、なんやてー?」
「別に……白石先輩と一緒におったんとちゃう? 自分も行く、言うてきただけや」
「ふーん」
せやったら、なんでそんな顔すんねんな。振り返ればむすっと財前は眉を寄せていた。ぐりぐりと眉間に人差し指を押し当てれば痛いわボケと迷惑そうな声が返ってくる。返事もせずにぱくんと携帯を閉じる、その仕草にどうしようもないなと思って金太郎は仰向けの財前に顔を重ねた。唇が触れてから顔を離せば、ぽかんとした表情の財前から眉間の皺がなくなっていて、よし、と金太郎は満足する。
「……はあ?」
「光ぅ、テニスしよ!」
はよ始めんと暗くなってまうでえ! そう言って金太郎が笑えば、身体を起こした財前は首をこきっと鳴らして呆れたように溜息を吐いた。しゃーないやっちゃな、何やねんホンマに。
しゃーないのは光やん、ぷうと膨れた金太郎の頭を財前が小突く。ラケットを手にして肩に乗せる仕草をした財前は、金太郎のよく知る彼の姿だった。
*
財前が四天高に入学するというニュースに、おや、と思ったのは自分と小春だけだろう。
謙也と白石、小石川はやっぱりなあという顔をしながらも喜んでいた。ハラテツ先輩がいるとはいえ、中学時代に比べたら四天宝寺高の選手層は薄い。千歳と銀の抜けた穴は大きいのだ。ヒラゼン先輩は卒業してしまうが、財前が入部してくる、というのは四天高テニス部にとって大きな収穫だった。
せやけど俺、財前は追いかけてこんと思うとったけどなあ。ユウジが漏らした呟きに、アタシもそう思うとったよ、と小春が返した。あの子、そないにメンタル強ないもの。
あの難しい子を懐かせた謙也くんの手腕は評価しとるけど、あのやり方はまずかったと思てるんよ。でもこうして来てくれるんなら案外、あれで良かったのかもしれへんわね。そんな会話をしたのが財前の入学前のことだ。
けれど飄々と入部してきた財前とテニスをしているうちに忘れていたそんな遣り取りを、彼の入部三か月目にしてユウジは違和感と共に思い出し、同時に原因を理解する。
「それはホンマに恋なんか?」
テニス部有志で中学の関西大会を観に行った帰り道、財前をスタバに連れ込んでそう問えば、無愛想な後輩はゴフッと音を立ててフラペチーノに咽る。ちなみにユウジと財前、という組み合わせに不思議そうな顔をした謙也たちについては小春が全てを丸く収めているはずだ。流石はマイエンジェル。
「あんた、何を知っとんねん……」
何度か咳を繰り返し、ようやく落ち着いたらしい財前が顔を上げる。何言うてんねん、とユウジは呆れかえった。
「自分、俺を誰だと思うてんねや? ガチホモの気配に気付かんユウジくんとちゃいまっせ」
「……あんた、小春先輩のことどこまで本気なんです?」
「それを俺に聞いてええのは小春だけやでー」
「…………ちゅーか、ガチホモに見えるん?」
尋ねる財前の渋い表情に、ユウジはストローを噛み潰す。あんたそういうとこがガラ悪い言われんねん、投げられた言葉には聞こえない振りをした。
「ま、それは言葉の綾や。せやけど見る人が見たらわかるんとちゃう? 謙也も蔵も健二郎も気付いてへんかったけど」
「さいですか……。ちゅーか先輩、ちょお待って。これ外でする話題とちゃいますやろ」
「アホ言いなや、周り見てみいカップルばっかやで。誰も他人の話なんか聞いとらんわ。なんで自分とわざわざこんな店入ったと思うてんねや、マクドとはちゃうねんで」
「あんたが多少なりとも考えてたってことに驚きっすわあ……」
「感謝するとこやろが。で、いつの間にそういうことになってんねん」
「……先輩の考えてはるのとは多分ちゃいますよ? 俺ら、そういうつもりやないですもん」
「やることやってたら一緒やろが。……別にええけどな、お前らがどうなろうとテニスに影響出さなければ構へんで。おまえの安定に一役買っとるみたいやし、ええんとちゃう?」
「……安定?」
「自覚ないんか。見るからに安定剤、っちゅー感じやん」
高校に入学してからの財前に感じた違和感はこれだったのだろう、とユウジは思う。今の財前は、あの頃よりもぐっと安定した。それを自分たちは財前の成長と受け止めていたし、実際そういった部分もあるのだろうが、謙也とのことに関して言えば要因は金太郎なのだろう。追い掛けて躱されてどうして良いのかわからなくなる、迷子みたいな表情を浮かべることがなくなった。謙也の背中を見て顔を強張らせることがなくなった。思わず謙也が振り向いても悠然としているだけの強かさを身に着けていた。それらはきっと、金太郎によって財前が取り戻したものだ。
「謙也のこと見ても、難しい顔しなくなったやん」
言ってやれば、財前はフラペチーノをぐるぐると掻き回しながら黙り込む。ズズッと音を立ててアイスコーヒーを啜りながら、そういうつもり、についてユウジは思いを巡らせる。
なあ財前、苦しくない愛し方だってあるんやで。それを恋と呼ぶかどうかは知らないけれど。
*
ちょっとの間でええから光の傍におったって? そんな風に金太郎に頼まれたのは大学二年目の、夏が去ろうとする頃のことだ。
高校を卒業し、千歳は大阪のとある大学の芸術学部に進学した。大学にこだわりはなかったし、学べる内容がある程度同一ならばどこでも良かったのに大阪を選んだのは、やはり中学時代の一年間が大きく影響しているのだろう。白石たちと進学の話などしたことはなかったから彼らが上京してしまう恐れも頭の片隅にはあったけれど、それでも千歳はこの街に戻ってきたいと思っていた。もともと風来坊の千歳がどこに進学しようと両親は気にしなかったし、大阪に行きたいと言えば笑って送り出してくれた。蓋を開けてみれば四天宝寺中で付き合いのあった面子は皆関西圏で進学していて、なんや懐かしいなあ、なんて言いながら千歳を迎え入れてくれた。白石は薬学部で謙也が医学部、小春は法学部。健二郎は経済学部で、ユウジは服飾の専門学校に進んでいる。東京の高校に通っていた銀はとうとう仏門に下る決意を固めたらしく、彼もまた関西に戻ってきて京都の大学の仏教学部に進学した。家業は弟が継ぐらしい。
「光くん、夕飯どげんするとね?」
「……千歳先輩、金太郎が何言うたか知りませんけど、鵜呑みにせんでええですよ」
あんたじっとしてるん嫌いでしょう。そう何日も、俺のとこにおらんと好きなとこ行ってください。そんな風に告げた財前は、半年前から京都の大学(情報学部だそうだ)に通うため一人暮らしをしている。大学が夏休みであるのを良いことに、千歳は彼のアパートに数日前から転がり込んでいた。もっとも長期休暇でなかったとしても同じことをしていただろう、可愛い可愛い後輩の、可愛い可愛い後輩に関する頼みごとを千歳が断る訳がない。
あんな、光はワイのこと好きやけど、それ以上にワイのテニスが好きやねん。そう笑った金太郎は夏の大会の終了後にオファーを受け、春からプロになることが決まっていた。財前と金太郎の現状を知っていた千歳にとって、それを知った財前がどういう対応をしたのか想像することは容易い。
「光くんが淋しくなくなるまでおるよ」
「……せやったら、せめて期限決めましょ。来週からあんたも授業始まるでしょう、それまででええです」
「ん、それでよか」
で、夕飯どげんする? もう一度問えば、財前は脱力したように息を吐いた。千歳の隣でベッドに凭れて床に座ったまま、クッションをぎゅっと抱えている。
「カレーでも作って明日までもたせたらええんとちゃいますか。俺、料理殆どできひんのです」
「それはこの数日でよくわかっとうよ……」
「文句あります?」
「俺が作ったるけん、問題なかー。スーパー行かんね」
「ええですけど……」
ことんと財前が千歳の二の腕に頭を預けた。金太郎、なに言うてました? あまり背の伸びなかった財前は、千歳にとっては小動物のようなサイズで可愛らしい。
ワイは全部コシマエにだけは話しとんねん、やけど光は全部話せる相手がおらんやろ。せやから千歳、光の話、聞いたって? そう言った金太郎に千歳は聞き返した。謙也じゃなくてよかと? すると金太郎はいじめっこの顔で笑って告げたのだ、ケンヤはもーちょいお預けやねん!
「んー、ひみつ」
「はあ? なんでやねん」
「金ちゃんも光くんも、むぞらしか」
「あんたは電波が通常運転ですね……」
クッションを抱き潰す財前の頭をよしよしと撫でてやる。セットをしていないからだろう、振り払われることはない。開け放した窓から差し込んでくる日差しが眩しいのか、財前は目を細めて右手で陽光を遮った。
「スーパーの前に、ストテニたいね」
「は? 嫌っすわ、なんでこのあっつい中テニス」
「光くんのラケットどこ?」
「話聞けっちゅーに……。なんやねん突然。あんたと違うて俺、もうテニスしてへんのですけど」
「嫌いになったらいかんよ」
「好きとか嫌いとかやなくて」
「嫌いになったらいかんよ。選んだのは金ちゃんじゃなくて、光くんだけん」
「……ちゃいますよ」
静かに返した財前に、千歳は首を傾げて先を促す。
「あれがテニスをしない、っちゅー選択肢が俺にないだけっすわ」
「……ん、」
それはきっと、誰にもなかと。千歳が苦笑すれば財前もまた淡く笑んだ。しゃーないから付き合ったりますわ、ストテニ。でもこんな炎天下の中でなくてもええやん、もう少しだらだらしましょ。ローテーブルの上の麦茶のグラスの中でカランと音を立てて氷が揺れる。氷が全部溶けたら出発たい。なんぼなんでも早すぎですわ、いつからいらちになっとんねん。
開け放した窓から残夏の風が流れ込む。しょんなかあ、少しだけゆっくりせんね、そう笑って千歳はそっと目を閉じた。
*
「……で、再会したらソッコーヤられた、と」
「日吉、オブラート……」
「財前が言うかあ?」
げんなりとテーブルに突っ伏す財前に、切原が呆れ声をあげてポテトチップスの袋を開ける。大学一年目を終えた春休み、財前と切原が我が物顔で日吉の部屋に居座る様に、あほらし、と日吉は溜息を吐いた。
初めてのU-17合宿で親しくなって以来、財前や切原、海堂とは連絡を取り続けている。互いに大学生になってからは家を行き来することも増えた。大学でもテニスを続けている切原や海堂とは違い日吉と財前は高校テニス部の引退を機にテニスをやめたが、付き合いが薄くなりはしなかった。関東圏の三人は実家暮らしだが財前は一人暮らしということもあり、彼のアパートは関西へ行く時の常宿となりつつある。今日のように日吉の家に集まることも初めてではなくて、その度にはしゃぐ母によって夕飯は豪華なものになる(曰く、「若に氷帝以外の友達がいるなんて!」)。少々不本意だが、夕飯に罪はない、と食べきる日吉に文句の言えるはずもない。
「再会って言ってもそんな久し振りじゃなかっただろ?」
「一年振りくらいやな。俺の卒業以来?」
「あ、そなの? 四天ってもっと集まってるイメージなんだけど」
「医学部は忙しいんやて。俺も毎回顔出してた訳やないしな。いっつも突発的やねん、大体白石先輩かユウジ先輩が言い出すんやけど」
「いいなー、俺も白石さんに会いたいなー」
「言うとくけど切原、あの人いっぺんもパーマなんぞかけへんかったからな?」
うるっさいな、知ってるよ! 不貞腐れる切原はペプシを呷る(日吉家は邸内での未成年の飲酒を認めない)。ぷはっと飲み干して、でもさ、と切原は続けた。
「流石はスピードスターだなー、謙也さん」
「スピードスター(笑)」
「あれって今でも言ってんの?」
「……たまに」
「止めてやれよ……」
「つかさ、財前、謙也さんのことはあっさりバラしたくせに前の奴のことはぜってー言わねえよな。元……元カノ? 元カレ?」
「あれは彼氏とちゃうもん……」
「あ、男なんだ……」
え、ゲイ? ゲイ? にやにや笑いながら尋ねる切原に遠慮なんてものはない。ポテトチップスをつまむ財前はゲイとちゃう、と不服そうに答えた。
「女とも付き合ったことあるで」
「え、いつ?」
「こないだの冬に、二週間くらい」
「みじかっ!」
「おまえそれ明らかに利用してんじゃねーか……」
「ちゃうわ」
「えー、やっだー財前に襲われるー」
「百歩譲って俺がゲイだとしても好みってもんがあんねんで」
ペットボトルのコーラをグラスに注ぎながら財前がむくれる。同い年の自分が言う台詞ではないが、歳相応の表情をするようになったな、と日吉は思う。
財前は高校テニス部の部長業を終えてからようやっと、自分たちに弱みを見せるようになった。同じくテニスをやめた日吉はその気持ちがわからなくもないから指摘はしないでやっている。
「で、なんで謙也さんのことは俺らに言う気になったんだ?」
「やってあのヒヨコ、絶対めばちこに言うやん。あの人ら今でも週イチで電話してんねんで」
「めwばwちwこwww」
「あー、言うだろうな。そしてめばちこさんは嬉々として俺に話すだろうな。俺らが交流あるの知ってるし」
「そんで日吉はそんな面白ネタ、俺らに言わない訳ねえな! 確かに隠しても仕方ねーわ」
「おーっす遅くなって悪かった……ってなんだこの空気」
ガラリと部屋の扉を開けて海堂が現れる。できあがってんじゃねーか、え、酒入ってないよな? 狼狽する海堂は部活帰りで、ラケットバックを部屋の隅に置いて腰を下ろした。
「おせーよ海堂」
「部活だって言っておいただろうが。何の話してたんだ?」
「財前の財前による財前のためのぶっちゃけトーク!」
「そうなのか?」
「なんやもう疲れたわ、若くん話したって」
「なんだよ若くんって」
「俺が話してやるよ!」
「バカヤは黙っとれ」
「あァ?」
「煽るなよ……。そういえば財前、今回はなんでこっち来たんだ? まさか俺らに会うためじゃないだろ」
「んー、金太郎に呼ばれてん。試合やるんやって」
「この時期に?」
「四天と青学で親善試合や。頼み込んだ……っちゅーか多分、強請ったんやろな。んで、あいつの高校テニスも見納めやし、来いっちゅーなら行ったるか思て」
「ってことは遠山vs越前か。面白そうな試合だな」
「俺も行く!」
「別に付いてきてもええで」
試合いつ? 明後日、なんて遣り取りに日吉は眉を顰めた。こいつ、明後日まで居座る気だろうか。日吉の考えに気が付いたのか、差し障りあるならうちで引き取るぞ、と海堂が声を掛けてくる。男前だ。
「うちでも構わないけど。なあ、そしたら明日ディズニー行こうぜ!」
「なんでやねん。男四人で行く気か」
「俺明日用事ある」
「俺も部活だな……」
「えー、じゃあ明々後日は?」
「なんでそんなに行きたいんだよ」
「っていうか財前はいつ帰るんだ?」
「いつでもええけど……帰りの切符取ってへんし」
「いいのか、蜜月なのに」
「みwつwげwつwww」
「さっきからうるっさいわあ……。ええねん、日吉のとこ行くて言うてきたし」
「ちょ、ホモの痴話喧嘩に巻き込むなよ」
「別に今更こんくらいで喧嘩せえへんわ」
「ノロケか!」
「……財前、彼氏ができたのか?」
「あ、そこからか……」
疑問符を飛ばす海堂に嬉々として切原が語り始める。時折茶々を入れる財前にぬれせんべいの袋を差し出し、食べれば、と声を掛けた。ん、と受け取る財前に言い忘れていたことを思いだし、そういえば、と声を上げる。良かったな、おめでとう。そう言ってやれば財前は目を瞠って僅かな間硬直し、それから耳を真っ赤にしてベッドの端に突っ伏した。え、なになに? そんな財前の様子を切原と海堂が覗き込み、ニヤニヤ笑って声を掛ける。照れてんの? カッワイー、俺も言ってやるよおめでとさん! 何か詳しいことはよくわからねえけど良かったな。そう二人が続ければ、ピアスの並んだ耳たぶは完全に真っ赤だ。
これだったのだろうか、と日吉は考える。祝福されたくて、財前は自分たちに会いに来たのだろうか。間違っていないと、幸せそうで良かったと、誰かに言って貰いたくて来たのだろうか。だとしたら馬鹿だな、と日吉は思う。誰かに言って貰えないと安心できないなんて愚かしい。けれどまあ、仲良しなんかではないけれど、そのくらいなら言ってやるのは吝かではない。仕方のない奴だな、日吉はぬれせんべいの袋を奪い返し、そっと静かに笑みを浮かべた。
*
「それでは財前光の生誕20周年を祝して、乾杯!」
1Kのアパートに男ばかり9人も集まればむさ苦しい。けれど窮屈さを感じながらも、たまにはこんなのも悪ないな、と謙也は思った。7月20日、土曜日という集まりやすさも相まって、久し振りの四天宝寺フルメンバーだ。
金ちゃんはジュースで我慢な、つまらんことで叩かれても勿体ないで。そんなことを言いながら他の面子の空いた紙コップに次々とビールを注ぐ白石は、女子力が高いと言うべきかオカン属性と表現するか微妙なところだった。謙也も白石のコップにビールを注いでやりながら、各々が適当に持ち寄った食事をローテーブルの上に広げていく。主賓かつ家主の財前は何もする気がないらしく、小石川に買ってきてもらった高級ぜんざいを幸せそうに頬張っている。
「ケーキどないする? 9等分で難しない?」
「10等分でええやん、財前が2コ。食えるやろ?」
「余裕っすわ」
「甘党は健在やなー」
「そないにころころ味覚変わりませんわ」
「あ、せや光、これオカンから預かってんけど」
「ええ? そういうんははよ言えや」
金太郎が鞄の中からタッパーに入った惣菜を幾つか取り出す。ぜんざいは他からも貰うやろからって、デザートは杏仁やでえ。テーブルに並べられる食べ物を見て財前は携帯を取り出し、何かの操作をして耳元に当てた。……あ、もしもし茜ちゃん? 光やけど。……おん、おおきに。せやな、仰山もろたで……え、盆? 金太郎と予定合わせて一緒に帰るで、そん時はぜんざい作っといてえな。
金太郎の母親だろうか、親しげに話す様子に謙也は眉を寄せる。幼馴染やからおばちゃんと仲ええのもわかるけど、なんでちゃん付けやねん。ちゅーか一緒に帰るんかい、遠山家は帰る場所なんかい。そんなことを考えていれば、にやついた笑みを浮かべる白石に覗き込まれた。謙也、男の嫉妬は見苦しいでえ。
謙也と白石が財前と金太郎のことを知ったのはつい数週間前のことだ。謙也も勿論ショックを受けたが、どちらかと言えば白石の方が落ち込んでいた。俺、財前も金ちゃんも可愛がってきたつもりやってんけど、なんで言ってくれへんかったんかなあ。ユウジも小春も千歳まで知ってたんやで? 俺、実はあんまり慕われてへんの? 実際には白石に知られると謙也に筒抜けになるから、という理由だったようだが、それはそれで謙也が反応に困る。あの二人にとって、これまで自分はどういうポジションだったのだろうか。
「おお、財前なんかゴツい日本酒あるやんけ。これ飲んでええの?」
「あー、ええっすよ。切原たちが連名で送ってきたんすわ、誕生祝」
「なんや今でも仲良うやってんねや」
「バンダナくん元気?」
「浮気か小春?」
「無駄に元気っすわあ、海堂の誕生祝にはワイン送ってん」
「似合わんやん」
「やからでしょ」
隣に座る財前の右手に掌を重ねてきゅっと握る。財前は首を傾げたが、利き手ではないからか逆らいはしなかった。ぜんざいは既に食べ終え、左手のコップは日本酒で満たされている。
「せや、財前は白石と小春と同じ大学通うてるんやろ? 会うたりするん?」
「全然会わへんですよ、学部ちゃいますし。見かけたことあらへん」
「まあ、そんなもんやろな。俺と小春も会うたことないし」
「二人に会うたら一緒におる友達に自慢したるんやけどねえ、イケメンやろって」
「小春ちゃん、友達って女の子なんね?」
「せやで?」
「相変わらずやな……」
飛び交う会話を静かに眺めながら銀がたこ焼きを焼いている(焼き器は財前の私物で、謙也もよく使わせてもらっている)。もうええで、という声に金太郎が飛びついた。
「金ちゃん、やけどせえへんようになあ」
「なんや白石、いい加減オカンみたいなこと言うんやめてやー」
「俺はせめてオトンでありたいんやけど」
「いや、オカンやろ……」
「オカンっすわ……」
「オカンやな……」
「健二郎まで俺を裏切るん?」
「裏切りも何も」
財前の意識が逸れているのが面白くなくて、握る手に力を込める。気付いた財前は振り向いて、なんや今日は甘えたですね謙也さん、と緩く笑った。誕生日やで、普通甘えるんは俺の方とちゃうの?
甘えたらええやん、そう言って謙也がむくれれば、ええこと教えたりましょうか謙也さん、財前は悪い顔で微笑む。金太郎は俺が幸せならそれで満足すんねんで、でも謙也さんは俺が隣で笑ってへんとあかんのでしょ? せやから一緒におったりますわ。
それのどこがええことやねん、問いかけようとした瞬間に気付いて質問を変える。財前、今、幸せなん? 謙也が真面目に尋ねれば財前はおかしそうに笑って言った、俺を何やと思てるん?
「……財前、俺、今日帰らんでもええかな」
「……帰るつもりやったん?」
「おーいそのへんにしときやバカップルー」
重ねた掌の温度が愛しくて、これは恋なんだと自覚する。ここまで来るのに何年掛かっとんねん、そんなセルフツッコミは飲み込んで、絡めた指先に神経を集中させる。指先でちょいとつつかれる、そんな仕草で多幸感に包まれた。今になってみれば、想いの在りかに気付くことはこんなにも容易い。
財前どないしよ、俺今幸せやねんけど。恰好悪くそう告げれば、知っとります、なんて飄々と返される。可愛くない台詞を吐く彼の顔を覗き込んでみれば、財前は同じ温度でゆっくりと微笑んでみせた。