「ひかるー! 誕生日おめでとさん!」
「……それはもう聞いたやん」
夜の部室で幼馴染に飛びつけば、財前は首を傾げながら面倒くさそうに金太郎を剥がそうとする。7月20日、確かに今日は彼の誕生日だけれど、祝いの言葉なら朝一番に伝えている。誕生日を部員で祝う、なんて習慣は白石たちが卒業した時からなくなっているから、部活が終わってからわざわざ再度祝われる意味がわからないのだろう。
疑問符を浮かべながらも、はよ支度せえ、と財前は金太郎を促した。夏とはいえ、夜も遅い。財前が部長になってから、金太郎の部活事情は大きく様変わりした。
白石たちがいる間は、金太郎の我が儘は比較的許されてきた。それは自分が頑是なくわめいたせいでもあれば、自分の我が儘が白石たちの利害と一致したせいでもあった。当時から部内で誰よりも強かった金太郎との試合は他のレギュラーメンバにとってもプラスであったし、突如加入した即戦力である金太郎と千歳をオーダに加えるため、白石は様々な組み合わせでの試合を望んでいた。
けれど、今はもう、金太郎とまともに試合ができる選手は財前しかいない。白石たちが抜けた後のことを彼らが心配していたのは金太郎も知っているが、財前は淡々と練習メニューを組んだ。恐らくは前々から考えていたのだろう。金太郎はこれまでよりも基礎練習を多く課せられ、手加減をして他の部員の相手をすることも増えた。おかげで部活自体はつまらなくなってしまったが、代わりに財前は毎日、部活後に金太郎と打ち合うことを約束した。部員の指導で不足する財前の練習も補う意味もあるのだろうそれは、白石たちの引退からもうすぐ一年になる今まで一日たりとも破られたことがない。
使うも使わんも好きにしたらええ。でも、武器は増やしとかなあかん。そう言って財前は金太郎に緩急をつけたテニスを覚えさせ、考えるテニスを教え、体力増強のためのメニューを組み、金太郎が放りっぱなしにしてきた基本の基本を叩き込んだ。金太郎の身長が財前を追い越してからは筋トレも増やされている。そういう一つひとつを、面白いなあと金太郎は思う。財前は、白石とは異なる方法で金太郎ごと四天宝寺を鍛えるつもりだ。
「いつまで呆けてるん。はよ帰るで」
いつの間にか着替えを終えていたらしい財前が金太郎の頭を小突いた。せや、と金太郎は当初の目的を思い出し、ナップサックをごそごそと漁る。目当てのものをすぐに見つけ、これ、と財前に差し出した。
「何やこれ」
「誕生日プレゼントに決まっとるやん」
「や、これウチのリストバンドやんか。備品やろが。しかも新品とちゃうし」
「よう見てやー」
はあ? と財前はリストバンドをまじまじと眺め、小さな縫い取りを発見する。緑のラインの中に小さく四天宝寺と書かれている黄色の糸を指で辿り、へたくそやなあ、と毒づいた。
「おまえがやったん?」
「ワイもやったけどな、これ、みんなで縫い取りしたんやでえ」
「みんな?」
「白石たち!」
みんな、という言葉に今の部活仲間を連想をしたらしい財前は僅かに目を瞠って、それからすぐにその表情を隠した。アホやんな、と金太郎は思う。そういう表情を金太郎に隠すことが今更だ。彼が今日何人かの友人に祝いの言葉を掛けられている姿は目撃したけれど、彼らがこんな風に財前を祝うことはないだろう。仲が悪い訳ではない。そういう触れ合いを望まない、というスタンスを財前が前面に押し出しているからだ。笑いよりもまず、チームに勝利を。
四天宝寺に、というところが財前最大のデレだと思うのだけれど、ツンが強すぎる故にあまり理解されていない。理解されたがっているわけでもないしまあええか、と流す金太郎は正直、団体戦の勝利よりも自分の試合の方がよっぽど重要だと思っている。昔は財前だってそういうタイプだったことを知っているから、えらいこっちゃな、とこっそり笑うのだ。ほんまに好きだったんやなあ。
財前に憧憬と後悔を植え付け、彼のデレを開花させたのは紛れもなく白石や謙也たちだ。けれどそれを知りもせずに、今の財前をひっそりと心配する先輩たちの姿を思い出し、金太郎は頬を緩める。
「……何にやけとるん。キモイで」
「やって、嬉しいやろ? 光」
「アホちゃうん。この寺のテン縫ったんおまえやろ。デカすぎやん、バランス悪いわ」
「それ、意外と難しいんやで?」
「不器用なだけやん……っちゅーかおまえ、あの人らにいつ会うたん?」
最近来てへんやろ、そう言う財前からリストバンドを取り上げてかざしてみる。確かに少しばかり、テンが大きすぎる気がしないでもない。
「最近とちゃうで。ホラ、ワイの誕生日んとき、離任式やったからみんな来たやん? あんときにお祝いしてもろて、コレも預かったんや。光の誕生日にみんな集まるんは無理やろから、ワイから渡してぇなって」
「ああ……よう忘れんかったな。おおきに」
「光の誕生日くらい、ちゃんと覚えとるでえ!」
金太郎からリストバンドを取り返した財前は肩を竦め、それを自分の鞄にしまい直す。嬉しいくせに、と金太郎は唇を尖らせた。
「ほな、これだけで済ます気やないやろな。おまえひと針入れただけやんけ」
「光もワイの誕生日、たこ焼きですませたやん」
「せやからおまえも善哉くらい奢らんかい」
「ええー……。しゃーないなあ、帰りコンビニ寄るぅ?」
「安いので済ませる気やな。……まあええわ、はよ帰るで」
「おん。帰りに買い食いするん、久し振りやなー」
二人の間のおやつ戦争は相変わらずだが、帰りに買い食いをする代わりに、部活が終わってから自主練を始めるまでの間に近くの店で買って戻ってくるのが習慣になった。おかげで近場のたこ焼き屋も甘味処もすっかり常連だ。この時間だと流石に店は閉まっているから自分もコンビニでアイスを買おうと心に決めて、ナップサックに着替えたシャツを詰め込みぱたぱたと部室の外に飛び出る。呆れたように溜息を吐く財前が電気のスイッチをぱちりと押し込み、鍵を掛ける間に夜空を仰ぐ。からりと乾いた空気は初夏のそれだった。
金太郎にとって、財前の誕生日は夏の始まりの合図だった。関西を制した今、とうに夏は始まっているのだけれど、それでもやっぱり今が始まりだと感じる。ようやく、全国なのだ。
「ファミマでええ?」
「ミニストップの白玉クリーム善哉のが好きやな」
「遠回りやん」
「たいして変わらんやろ」
んん、と大きく伸びをする。血が騒ぐのを抑えられなかった。ようやく全国大会が始まるのだ。ようやく――全力で、敵を叩きのめすことができるのだ。何の遠慮も手加減もいらない彼と戦うことができるのだ。
ぞく、と震えた背筋に財前の纏う空気が緩んだ。気ィ早いっちゅーねん。からかうような声音のそれが本音ではないことを知っているから、体温の低い彼の手を引いてはよ行こと急かせば今度こそくはっと財前は笑う。
「もう夏やなあ」
金太郎にとって、別れの季節は春ではなく夏だ。すべて終わってまっさらな中、更に置いていかれるあの喪失感に、今でも胸がぎゅうっと痛むことがある。ひと月後にはまたそれを繰り返す、財前さえもいなくなる。己のために戦う金太郎とて、それが淋しくない訳がない。苦しくない訳がない。一年前、白石たちの居ない四天宝寺を想像できなかったように、金太郎は未だ財前の居ないコートを思い描けない。
「暴れてきてええで。…………ちゃうか、暴れさせたるで」
「……当ったり前やん!」
だけどそれでも、望むのは夏だった。戦うためだけの夏を見据えていた。
ずっと、ひたすらに、夏を待っていた。