ドアを開けた途端、黒髪が目に飛び込んできた。
 それが見慣れた友人のものであることに安堵する自分は、結構女々しい。


「出掛けるのカ」
 財布をポケットに突っ込んでコートを羽織り、ドアを開いた状態で動きを止めたエドワードに、珍しそうにリンが尋ねた。エドワードにしてみれば、彼が玄関から入ってくることの方が珍しい。
 ここ2週間ほど、彼は完全にこの部屋で生活を送っている。ちょっと気になることがあってと言うリンは、昼間は大抵どこかへ出掛け、こうして夕方戻ってくるのだ。何をしているのかは知らないが、次期皇帝がこんなにも国を空けていて良いのだろうかとエドワードは少し不安に思う。
「見りゃわかんだろ」
「まあナ。けどオマエ、必要最低限しか外に出ないじゃないカ」
「必要なんだよ。…あ、ちょーどいい、おまえも来いよ。どーせヒマだろ?」
「ハ?暇じゃなイ、オイ、引っ張るナ!」
 居候の非難をさくっと無視してエドワードはドアを閉め、鍵を掛ける。
 毎年ひとりで訪ねる場所。けれども本当は、ずっと友人を連れていきたいと思っていた場所。


 最初の目的地は花屋。小さな店の軒先をくぐったエドワードの後ろで、逃亡を諦めたリンが怪訝そうに眉をひそめる。
「おばちゃん、久し振り!」
「おや、エドワードかい?あらまあ、もうこんな季節なんだねえ…。例のヤツでいいんだね?」
「うん。できるだけカラフルで、華やかで、子煩悩なオッサンが小学生の娘に贈りたくなっちゃいそーなヤツ」
「はいはい。任せときな!」
 一年に一度しか顔を出さないのに花屋の女主人はしっかりエドワードの顔を覚えていてくれて、腕まくりをして可愛らしい花束をくるくると器用に作っていく。
「今年はお友達も一緒なのかい?」
「なんかタイミングが良かったからさ。紹介しようかと思って」
「そりゃあいい。きっと喜ぶよ」
「ん、アリガト」
 これから向かう先を知る上でそう言ってくれる彼女に、エドワードは心底感謝する。
 本当は少し怖かったから。彼を全てから切り離してしまった自分に、友人を紹介する権利があるのかわからなかったから。でも、それでも知らせたかったのだ。今の自分を彼に知って欲しいと思ったのだ。
 笑ってみせたエドワードに、女主人も満面の笑みで返す。その指先が、きゅ、とリボンを結んだ。
「ようし、出来た。どうだい?」
「おお、カンペキ!さっすがおばちゃん、サンキュー!」
「こちらこそ。今後とも御贔屓に」
「また来るな!」
 そう言ってエドワードは代金を払い、店をあとにする。何も言わないリンは、色とりどりの花束を不思議そうに見つめていた。


 夕暮れの墓地は静かだった。エドワードたちの他には誰もいない。その静寂の中をエドワードは迷わず進んで、ひとつの墓碑に花を手向けた。リンが墓碑銘を小さく読み上げる。マース・ヒューズ。
「知ってるか?」
「…エンヴィーに殺されタ、マスタングの協力者。それしか知らなイ」
「そっか」
 エドワードは地面に座り込んで、墓碑に刻まれた名前を右手の指先でなぞる。エドワードがこの腕を取り戻して、後見人よりも先にその報告したのは実はこの人だ。
 巻き込んでしまった、という言い方は本当はおこがましいのかもしれない。彼は軍人であったし、ロイと共に行動していた以上、たとえ自分たちと知り合わなくともいずれ真実に辿り着いていただろうから。けれどもやはり、それを早めてしまったのはエドワードたちの責任だと思うのだ。もし自分たちに関わらなければ、彼はあと何回グレイシアに愛を囁けたのだろう。何回エリシアを抱きあげられたのだろう。何回、ロイと笑い合うことができたのだろう。
 考えてもどうしようもないことなのだとわかっている。エドワードがそんな風に考えることを望むような人ではないとわかっている。それでもどうしても、ごめんなさいと謝らずにはいられないのだ。それがたとえ卑怯な自己満足であるとしても。
「…命日なのカ?」
 墓碑を見つめたままリンが呟くように尋ねた。それは明日、とエドワードは答える。
「エ?」
「だって、その……。明日だと、鉢合わせるかもしんねえじゃん」
「おまえナ…」
「うっせ。いいんだよ、そーゆーことに拘る人じゃねえ」
「ソーデスカ…。…なんで俺を連れてきたんダ」
 尤もな質問だった。けれども少し気恥ずかしくてエドワードは苦笑する。
「うーん…。すげえいい人だったんだ。俺たちって、自分で言うのもなんだけど、友達少ねえじゃん?特にあの頃は根なし草だったしさ。周りは大人ばっかりっつか軍人ばっかりだったし。そーゆー俺らに友達つくれよとか、田舎のばあちゃんは大事にしろよとか、彼女つくれとか、そーゆーの色々…。近所の普通の大人が言うようなことを俺らに言ってくれるわけ。スゲー愛妻家で親バカで、セントラルに行くたびに家に招いてくれて、一緒にメシ食ってくれんの。食えないアルも一緒に。そんでひとりで酔っぱらってアルの頭にネクタイなんか巻いたりしながら言うんだよ。友達はいいぞー、家族はいいぞー、ってかおまえらはウチの子だ!とかな。
 あの頃の俺にとって、一番目の幸せの象徴ってのはやっぱりアルと母さんと3人で暮らしてたときのことだけど、2番目に、いやそれとおんなじくらい、あの人の家族を幸せの象徴だと思ってた。あの家族の中に迎えてもらうのが大好きだった。
 本気で心配してくれてたんだ。軍人ばっかに囲まれて苦しくないかとか、ちゃんと食べてるか、寝てるか、笑ってるか、泣いてるかって、そう聞いてくれる人だった。ちゃんと友達がいるのかって聞いてくれる人だった。だからさあ、知って欲しいと思ったんだ。今の俺に、沢山とは言わないけど、友達と呼べる奴がいるよって。本当はアレクとかニコラスとかオスカーとか、あいつらにも会って欲しいと思ってたんだけど。流石に当時、事件のことが新聞に載って騒がれてた人だから、あんまり知られちまうのもまずいかなって思って。
 そーゆーイミでは、おまえなら何の心配もねえし。なんたって元ホムンクルスだしな!」
 傍らに立つリンを見上げてニヤリと笑ったエドワードに彼は何も言わず、ただエドワードの髪をくしゃくしゃに掻き混ぜて、小さく息を吐いただけだった。その心遣いに、サンキュ、と心の中で呟いた。



 なあヒューズ中佐、あ、准将か。でも中佐でいいかな。やっぱり俺にとってあんたは中佐なんだ。
 なあ、連れて来たぜ。あんたが口を酸っぱくして言ってた、なんでも話せる友人だ。あんたたち程深い付き合いでもないし、そもそも祖国からして違うし、進む道も目的も異なるけど、それでもこいつは俺にとっての最大の理解者で、なんだ、その、いわゆる親友なんだと思うよ。ぜってー本人には言わねえけど。あんたから世界を奪った俺にはそう望む権利なんてありはしなけど、あんたと大佐、じゃねえ中将のように在れたらいいと思う。
 …やっぱ、怒る?あんたならガキが権利とかなんとかほざくんじゃねえ!って叫ぶかな。それともそんなに自虐的になるなって頭を撫でるかな。
 なあ、ごめんな中佐。謝るなって言わないで。俺はあんたに謝らなくちゃいけないことが沢山あるんだ。
 あんたから世界を奪ってごめん。世界からあんたを奪ってごめん。
 それから、あんたの望む未来を、つくってやれなくてごめん。
 あんたは事あるごとに言ってたよな。あいつに嫁さんもらえと、俺に彼女をつくれと。多分、あんたは全部知ってたんだろう?俺の気持ちもあいつの気持ちも全部知ってて、それでもまっとうに生きて欲しいと思ってたんだろ?普通の幸せを見つけて欲しいと思ってたんだろ?
 でもどうしてもその願いは叶えてやれそうにないんだ。あいつを誰にもやりたくないんだ。だって俺はあの掌の熱を知っている。あの瞳の奥の色を覚えてる。愛されるということの喜びを忘れることなんかできやしない。
 あの頃の俺はどうしようもなく幼くて、それを受け止めることもできなくて、あいつのくれる愛情もあんたたちの注いでくれる愛情も抱えきれずにうろうろしてて、挙句に困って突っぱねちまうようなこどもだった。でも、今ならできると思うんだ。あいつを愛することができると思うんだ。あいつがくれる苦しいほどの愛情も、あんたたちのくれるあたたかい愛情も、きちんと受け止めることができると思うんだ。だってホラ、俺にはこの両手があるんだぜ。あんたが繋いでくれた道のその先にあった、アルの体と俺の手足。
 認めてくれと、許してくれと、そんなことを言いたい訳じゃない。むしろあんただけは俺を許してくれなくていいと思うんだ。俺、身勝手だもんな。みんな結構俺のことを無欲だと言うけど、実のところ、俺は自分ほど強欲な人間をほかに知らない。だからあんたは俺を許してくれなくていい。許さなくていいから、ごめんなさいと謝らせてくれ。それから、ありがとうと言わせてくれ。
 俺を、俺たちを、愛してくれてありがとう。可能性を遺してくれてありがとう。
 あんたの望む形ではないけれど、それでもあんたの親友の夢を叶えるよ。あんたがあいつと夢見た世界を叶えるよ。見ててくれ。あんたの愛した世界を、あんたの夢見た世界を、俺も、ずっと、愛するから。

 あの頃の俺は知らなかった。
 あんたの愛したこの世界は、今も、こんなにも美しい。