「リドリーが伏兵に?」
シーナがその報告を受けたのは、フッチと共に石板前のルックを訪ねている時のことだった。隠すこともないと判断したのか、カスミは一言断ったのみで彼らの存在を気にすることなく報告を続ける。
「はい、ラダト周辺に偵察に出たところ、待ち伏せにあって包囲されたようです」
「何やってんのさあのデカブツ」
「ルック、もう少し言い方ってものを…。こんなところじゃ誰が聞いてるかもわからないし」
「…聞いてなければいい訳?」
「つかルックならどんな暴言吐いたところで今更誰も気にしないんじゃね?」
「それもそっか。いやでもルック、リドリーさんは凄い人だと思うよ」
「人じゃなくてコボルトだけどな。あ、ごめんカスミ、それで?」
「…全軍出動とのことで。ルックさん、魔法兵団を率いて急いで向かってください」
どうやらルックへの伝令も兼ねていたらしい。了解、と返して彼はそのまま風に溶ける。
「では、私は仕事に戻りますので失礼します。シーナさんもお気をつけて」
「おう、報告アリガトな〜」
くのいちが敏捷に去ると、フッチが怪訝そうにシーナを見上げる。
「シーナは何するのさ?」
「何って。そりゃ俺は親善大使みたいなもんだし将にはならないけどさ。だからこそのオシゴトだろ」
「…何するの?」
ますます怪訝な顔をするフッチに、シーナは声を潜めてにやりと笑う。
「俺、親衛隊配属。隣国の主戦力を間近で見れるチャンスなんてそうないぜ?」
***
フッチが所属するハンフリー隊は、ビクトールの歩兵隊のひとつに組み込まれている。今回の作戦においてメインの救出部隊は馬を有するフリックとキバの兵団で、フッチらが担うのはその後方での援護だ。
「ちと、マズイな…」
前を見据えたままビクトールが呟いた。何が、とは聞かなくても流石にわかる。
リドリーを救出できる可能性は、かなり低い。
フリックたちは懸命に駆けているが、全力疾走すると馬はすぐに潰れる。フッチは騎馬で戦ったことはないが、馬でも竜でも人間の都合で限界まで力を使わせるのは無茶なことなのだ。
フッチは斜め前方のビクトールの背中を見つめる。彼は本気でリドリーの身を案じているようで、フッチは正直、少し驚いていた。彼のような傭兵気質の人間は、ひとつの軍に深く執着しないものだと思っていたので。
3年前も、彼はそうやって深くあの軍に浸かっていたのだろうか。フッチが参戦したのは戦争の終盤だったし、あの頃は自分のことで精一杯で、他人の心情など慮る余裕など無に等しかったのだ。
みんな、何のために戦っているんだろう。
フッチが参戦しているのはアスに恩を返すためだ。再会した昔の仲間たちのためにも頑張ろう、という気もある。恐らくヒックスやテンガアールも同じようなものだろう。
シーナは完全にトランの人間になっていた。フッチにとってもトランは母国だが、彼のように国益を鑑みたことなどない。尤も彼のような重い肩書きもないのだけれど。
ルックはどうなんだろう、とフッチは思う。彼は前回も今回も、師の命令と星の意志で参戦していると言っていた。けれどもそんな投げやりな理由の割に、戦場で最も多くの敵を屠っているのは彼の風なのだ。
戦う理由がなくとも、己の手を血に染められるのだろうか。
「野郎ども、行くぞ!!」
ビクトールが叫ぶ。走り出す直前、一瞬だけ後方の魔法兵団を視界に収める。
フッチは槍を構えた。
既にリドリー率いるコボルト部隊は四方を王国軍に固められている。如何に彼らが屈強とて、もう長くは持たないだろう。そう分析しながら馬を止め、ふと、違和感を感じてルックは前方に目を凝らす。
「ルック殿?如何されました?」
将の異変に気付いたのか、傍らに控えるカミューが声を掛けてくる。寄る必要はないと手で制した時、見知った軍旗が翻る様に確信した。
「あいつがいるんだな……」
兄の軍だ。
前方の歩兵隊とそれに向き合う王国軍のさらに奥。黒い毛並みの馬に跨るのは、間違いなくハルモニア魔法兵団だろう。いつからハイランドに加勢していたのかは知らないが、その協力自体に不思議はない。ハルモニアにとってハイランドは属国なのだから。
僅かだが魔力の波動を感じる。詠唱に入っているのだろう。ならば迷う余地はない、一刻も早く、攻撃を。
「…ルック殿?」
距離は同じままにカミューが問う。ルックは目測で敵軍との距離を測り、目線を固定したまま答えた。
「厄介なのがいる。あれを叩くよ」
「魔法兵団、攻撃準備!」
カミューはルックの真意を問うよりも先に声を張り上げた。途端に流れ込んでくる魔法兵の魔力を根こそぎ掴み取るような気持ちで吸い上げ、旋風の紋章に魔力を込めて両手で杖を正面に向ける。
「旋風よ、大地を切り裂く刃となりて我が敵を切り裂け!!!」
二つの大魔法が起こったのは殆ど同時だった。
風魔法が、ひとつだけ異なる旗を掲げる軍を切り裂いて。
土魔法が、ふたつの騎馬隊の目前の大地を割れさせて。
戦場を悲鳴が覆う。
フリックは棹立ちになる馬をどうにか宥めた。ぱっくりと割れた大地はどう足掻いても渡れそうにはない。
「ちくしょう!あと少しだったってのに!!」
キバは旧知の将軍が悪態を吐く声を拾った。しくじりやがって、と叫んだシードがリドリー隊を取り囲む。
「引け!第2波が来るとも限らぬ!」
ササライは風の刃をどうにか防いだ。その為に己の魔法は威力を失ってしまったけれど。
「我が隊の魔力は底をつきました。引きましょう、ヒクサク様の兵を失うわけにはいきません」
リドリーは一変した状況に絶望した。近くまで寄せていた味方との溝は埋まらない。瞬く間に包囲は狭まる。
「然れども我らの誇りは潰えぬ!気高きコボルトよ、最後まで刃を振るえ!!」
「何が起きたッ!?」
シーナの隣でアスが叫んだ。シーナにだってわからない。唯一わかるのはルックの風が己の頭上を通り抜けてハルモニア軍を急襲したことだけだ。
翼を広げて宙に浮かぶチャコが大声を張り上げる。
「アス、ムリだ!オッサンはもう捕まってる!!」
「なんで!」
「地面が裂けて馬が渡れない!!」
チャコは今にも泣きそうだった。シュウが深く息を吐く。
「アス殿、撤退します」
「だって、リドリーさんは!」
「ここで全滅する訳にはいきません」
「シュウ!!」
シュウがこちらを振り向き、顎でしゃくる。シーナは目だけで返事をしてアスの馬の手綱を引いた。
「行くぞ、アス。捕まっちまったらもう、俺らにできることはない」
「シーナ、だって…!」
「後から愚痴でも罵倒でもなんでも聞いてやる。今はわめくな、うろたえるな。全軍がおまえを見てる」
「シーナ!」
「おまえは軍主だ。それを忘れるな」
アスがキッとシーナを睨んだ。その眦から涙が伝う。それでも彼は声を張り上げた。
「全軍、撤退ッ!!!」