夕暮れである。
紛糾した会議を終え、シーナは任務を背負って扉をノックした。言いたいことだけをのたまい、ついでにフリックを逆上させてさっさと退場した我らが魔法兵団長の部屋だ。
「シーナだろ。勝手に入りなよ」
「それじゃ遠慮なく」
「いつもしないくせに…」
不機嫌な魔法使いはブーツを脱ぎ捨てて法衣のままベッドに転がっていた。常ならばまだ石板前に立っている時間であるにも関わらず。
「悪いね、お疲れのトコ」
「本当にね。あんたはパシリ?」
「はは、ばれてた?」
昼間の戦におけるルックの攻撃の説明と彼の明日の戦略。シーナが軍師に命じられたのはその2点を聞き出してくることである。自室に籠った風使いから言葉を引き出せるのは、現在の同盟軍ではシーナだけだという判断によるものだ。正確に言えば軍主でも可能だが、彼は今それどころではない。
部屋に1脚しかない椅子をベッドの傍まで引っ張って腰を下ろす。床を引きずる音にルックが眉を顰めた。
「…あれは真の紋章だよ」
「あ、そなの?なに、土?」
「他にないだろ。真の土の紋章。僕の魔法兵団が宿してたのは風だったし、風や旋風であのタイプの攻撃を防げるわけがない。だから術者を狙った、それだけだ。あれでも向こうの威力を半減させたと思うけど」
「ああうん、キバ将軍が礼を言ってた。おそらくアレはキバ将軍とフリックの隊ごと地面を崩すつもりだったんだろうって。馬が棹立ちするだけで助かったってさ」
「同じ場所にいた将軍が理解できたのにあの青いのは突っかかってきたわけ?頭の青さも変わんないね」
「まあ、それでこそフリックじゃん?」
ルックは寝返りを打つ。法衣がどうにも寝難そうで、シーナはその右腕の組み紐を解いてやる。無言で左腕も差し出された。
「真の土の紋章ねえ…。ハルモニアが出てくるトコまでは予想してたけど、まさか真持ちの神官将とはなー」
「あの国なら真持ちを辺境軍の将に据えることぐらいやってのけるだろ。あの国くらいしかやらないだろうけど」
腰の組み紐も解いてやる。ルックはされるがままだ。
「ま、ウチならやらないな。……ところでルック」
「何さ」
「あの神官将は、おまえの何?」
「……あんたまで青いのと同じこと聞くの」
最後に腰帯を抜き取って薄い毛布を掛けてやる。暑そうに身をよじるので胸までで留めた。
「おまえが話したくないことは聞きたくないけどさ。チャコが見ちまったんだよ、奴の顔」
「…………チャコだけ?」
「多分な、遠かったし。ウイングボードの視力には恐れ入るよ。あいつが真っ先にアスとシュウと俺に言ってきたからそこまでで口止めしてある」
「あっそ……」
ルックは溜息を吐いた。右手を毛布から出して、シーナの右手の土の紋章を指でなぞる。
「いいじゃないか知り合いで。あんたたちは誰も困らない」
「…そっか。じゃーいいよ、知り合いで」
「明日もあれが近付く前に追い払うから。だから大丈夫、」
「使うのか?」
ルックの言い訳を遮って尋ねた。咄嗟に引っ込められそうになった右腕をしっかりと捕らえる。
「……あんたには関係ない」
「……つーことは使うわけね」
「関係ないってば」
「ないな。だから止めやしない。だけど一つだけ教えてくれ」
「…………何」
不満も露わにルックが問う。シーナは苦笑しながら口を開いた。
「おまえがソレを使っても、紋章狩りは来ないのか?」
ルックが絶句するのがわかった。翡翠を見開いてシーナを見つめている。滅多に見れない表情だ。
「……随分と勉強してきたみたいじゃないか。放蕩息子のくせに」
「まーね。だって親父たち、そゆこと全然考えねえんだもん」
「当たり前だろ。少なくとも今、トランに狩られる紋章なんてない。心配するだけ無駄だ」
「まあ、他にやることも多いしな。それで、おまえは?」
「…………僕は、狩られない」
「絶対に?」
「確信がある。理由は教えないけど」
「……そ。ならいいわ、安心した」
掴んでいた右腕を放して、毛布の中に仕舞ってやる。おやすみと言い掛けて、ルックが険しい表情をしていることに気付く。
「ルック?」
「……あんたは、これ以上、」
いつもよりも低い声だった。不機嫌さはない。けれどもきっぱりと、風の魔術師は言葉を紡ぐ。
「僕にもハルモニアにも関わるな」
おやすみと優しく告げて扉を閉める。そのまま扉に背を預けてずるずると座り込んだ。
力になってやりたいだけなのに。不器用で捻くれた少年の、安らげる場所で在りたいだけなのに。
「人を守るのって、ムズカシー……」
シーナは深く、息を吐いた。
***
『デュナン軍は敗れはせぬ!アス殿も、貴様になぞ屈したりはせぬ!!』
敗軍の将が、何を偉そうに。
面倒な軍議が終わったばかりである。神官将は従者の淹れた紅茶を口に含んで一息吐いた。
「愚かだなあ」
コボルトの将も、それからハイランドの皇王も。
皇王ルカは負けるだろう。ササライはそう判断していた。如何に強大な力を持とうと、それだけで勝利など得られない。支配に必要なのは純粋な暴力ではなく、暴力を背後に控えた上での、人心を掌握する力だ。
ハイランド兵は既に血に倦んでいた。人を殺すのに倦んだ国は長くは持たない。それを知りつつもハルモニアが手を貸すのは、始まりの片割れがいるからだ。
ジョウイ・ブライトが紋章を統合させたらそれを奪う。奪えぬなら彼ごと連れ帰るまで。
「面倒臭いったらないよね」
早々に片を付けてハルモニアに帰ろう。そう思ってササライは紅茶を飲み干した。
天幕の中に、夜風が踏み込んでくる。
ふと、昼間の戦を思い出した。ひどく気味の悪い風の使い手。
「あれは、誰だったんだろう…」
そう考えてから、ササライは緩く首を振った。それはどうでもいいことだ。
知っておけと言われたこと以外は、知る必要はないのである。
ハルモニア神聖国における最も平穏な生き方をササライは心得ていた。幼いころから国の中枢で生きることを余儀なくされた己にとって、それは生存本能のようなものだ。
ササライは記憶に蓋をした。従者に向かってにっこりと笑い、僕は寝るねと宣言する。支度をしろとの意だ。
「やれやれ、明日も戦か。面倒臭いけど仕方ないよね」
胸の前で両手の指を組む。ササライはゆっくりと瞼を閉じた。
「我らが父上の御威光の下、世界に円の秩序の祝福を」