展望台を見上げたのには何の意図もなかった。けれども見上げた先にはいつものウィングボードの姿はなく、代わりに翠色の法衣が棚引いていた。それになんとなく気を惹かれてビクトールは歩を進める。根っからの傭兵気質の彼の行動基準は大抵気まぐれによるものだ。
宿願を叶えた今は、なおのこと。
「何か用?」
最後の階段を登り終えるのと同時に紡がれた無愛想な声にビクトールは苦笑する。気配に敏い彼のことだ、自分が展望台に向かった時点で気がついていたのだろう。
「ンなにツンケンすんなよルック。おめえこそ珍しいじゃねーか、石板はほっといていいのか?」
「…今、うるさいんだよあそこ。ナナミが新作を作ったとかなんとかで、アスやシーナが騒いでる。青いのはもう、死んでるかもしれないけど」
「ははっ、馬鹿だなあいつも」
相棒の相変わらずの不幸っぷりをビクトールは笑い飛ばす。
「…それで、何の用?」
「別におまえさんに用があった訳じゃないがな。なんとなく来ちまったんだよ、強いて言えばここへの用か」
「ふうん。ようやく眺めてみる気になったの」
「…あ?」
「眺められる気分になれたの。ノースウィンドゥを」
それまでちらりともこちらに顔を向けなかったルックがビクトールを真っ直ぐに見据えていた。この場所に初めて登ったことも、今までその一歩を踏み出せなかったことも、その翠の瞳にはすべて見透かされているような気がして、ビクトールはゆるく首を振る。
「…おめぇみたいなガキは嫌いだよ、まったく」
「それは良かった。あんたに好かれたくなんかないよ」
憎まれ口を叩く子供の金茶の髪をぐしゃぐしゃに掻き回してやった。迷惑そうな顔を隠しもしない彼の隣にどっかりと腰掛ける。
風が彼の髪をゆっくりと梳かしてゆく。それが面白くなくて、もう一度その髪を掻き回した。
この城がビクトールの故郷の上に成り立つことを知る者はそう多くない。姉弟と相棒の他にはこの場所に旗を揚げる前から連れ立っていた旅芸人の一座くらいのものだ。けれどもきっと隣に座る風使いはすべて承知しているのだろう、彼と彼の師が何を知っていようとそれは不思議なことではない。
「いい眺めだな」
心からそう思って言葉を漏らした。城があり、広場があり、宿屋と酒場の向こうには店が立ち並ぶ。目の前の図書館の北西には流水が顔を覗かせ、道場からは稽古の音が響いている。すでにここはただの城ではなく、ひとつの街だった。かつての故郷と同じように、活気の溢れるひとつの街だった。
「ここの眺めがいいのはわかってたけどよ、流石にチャコの前で感慨にひたる訳にもいかねえだろ?」
「あいつらがいない時も結構あるけど」
「フリックを連れてくる訳にはいかねーしなあ。あいつは無駄なところで気を使うんだ」
「家出中年だからね。成人の儀とやらはいつ終わるのさ」
「はは、青年にしといてやれや。ましてやアスと一緒には眺められねえしよ。気に病んじまう」
「ここを選んだ判断は間違えてないと思うけどね」
「がっはっは。そりゃそうだ」
城の向こうに広がるデュナンの碧さが目に痛い。湖の反射は昔と変わらず輝きを振りまいている。
ひとりで来るべきだと思っていた。ひとりで眺めたいと思っていた。自分しか知らない故郷を懐かしむのは、己がひとりきりで行わなければならないと、そう思っていた。
「…消えようか」
こちらの心中を読んだかのような声にビクトールは苦笑するしかない。
「いいや、その必要はねえよ。折角だからおまえも眺めとけ」
「…そう」
彼は勿論謝ることなどしないし、自分を哀れみもしないだろう。同情を求めないビクトールにとって、案外良い隣人であるように思えた。
街が、生まれ変わってゆく。
荒れ果てた街はもう何処にもない。ビクトールがひとりで作った墓の上に建物が並び、人々が踏み固める。
眼下の図書館は昔も図書館だった。もっとも司書はあんな美人ではなくしわくちゃの爺だったが。実践主義者であるビクトールは今も昔も本など碌に読まないが、彼にはよく懐いていたように思う。寺子屋も兼ねていたそこからはしばしば逃げ出したものだけれど。
道場がある場所は確か酒場だった筈だ。まだ子供であった自分は入る度に追い返されていた。勿論酒の味など年が二桁になる頃には試していたが、酒場で飲むからこその酒というものもあるのだ。
レストランの後ろ、物干し場になっている場所は子供たちの遊び場だった。今は崖登りをしているようだが、当時は逆に、如何にスマートにデュナン湖に飛び降りられるか競ったものだ。
一番変わっていないようで、その実まったく異なるのは商店街だろうか。確かに昔もあそこには店が並んでいたけれど、紋章屋も札屋も鑑定屋も、そんな洒落た店などなかったはずだ。鍛冶屋だってあんなにまともなものはなかった、器用な親父が包丁を研いでやったくらいだ。他に並んでいたのは道具屋と、いくつかの食料を扱う店だけだ。ああ、仕立屋もひとつあったかもしれない。
自分が住んでいたのは、今まさに己の部屋として軍主に与えられた場所だった。何の因果かと笑ってしまう。あの場所に住んでいた。父と母と姉と弟、それから隣の家にディジー。初恋の女。
すべてを失った。
あれから一度も恋なんぞしたことがない。一夜を共にした女はいる。随分と親しくなった女もいる。愛してみるのもいいかもしれないと、本気で考えた女もいた。けれども昔のように、燃えるように、溺れるように、恋をしたことなんて一度もない。きっと、これからもないのだろう。
だからこそビクトールはフリックと旅をしている。誰にも恋ができなくなった男と、未だに亡くした女に恋をしている男が二人、定住を避けるように旅をしている。
きっと自分たちは死ぬまで旅を続けるのだろう。きっと自分は、失った故郷を忘れることができないのだろう。豪放に、磊落に、忘れた振りをし続けて。
ビクトールは隣に座る風使いに目を遣った。何も乗っていない掌を広げてふうっと息を吹きかける様は、風と遊んでいるように思えた。彼の瞳は風の行く先を追いかけて、揺れた洗濯物を縫いとめる。
「ねえ、ビクトール」
ボーイソプラノに名を呼ばれる。呼んでからくるりと彼は振り向いた。
「故郷って、いとしい?」
「…は?」
何を突然。そう返そうとした言葉を飲み込んだ。彼の目がひどく真剣だったからだ。
「……おまえ、生まれは?」
「知らないほうがあんたのためだよ」
「そうか、ならそれはいい。…おまえにとってはどうなんだ?」
「…あれを故郷と呼ぶなら、僕はそれを憎んでいる」
「…そうか…」
彼のことは何も知らない。何処で生まれ、何処で育ち、何故レックナートのもとにいるのか、何故この戦争に力を貸すのか、何も知らない。当たり前のように昔馴染みとして扱っているけれど、実のところ仲間内で一番正体が分からないのはこの子供だろう。
預けてしまおうか。
ふいにビクトールは思った。己の抱く感傷を、この小さな風使いに預けてしまおうかと。
きっと彼は重荷だと思わないだろう。受け止めるだけ受け止めて、けれども何も持たないかのように凛と佇むのだろう。まるで、彼自身が風であるかのように。
そしていつか思い出してくれればいい。故郷を憎むという彼が、故郷を慈しむ男がいたという思い出をいつか取り出して、苦笑してくれればそれでいい。
ビクトールは笑った。いつものように、大口を開けて。
「いとしいな。何よりも、いとしい」
「…そう」
暖かい風が風使いの髪を揺らした。その金茶の髪を、ビクトールはやっぱり掻き混ぜた。