ギイと軋んだ音を立てて、クラウスは書庫の扉を押し開けた。馴染んだ古めかしい紙の香りを肺に吸い込む。書物が痛むのを避けるため極端に窓が少ないこの部屋は、廊下よりも幾分暗かった。
こつこつと小さな足音を隠すことなくクラウスは書棚の間を抜ける。デュナン城の中に位置するこの書庫は、極秘文書とまではいかないまでも、一般向けに開放するのは如何な物かと思われる、そういった書物を収める場所だった。クラウスのようにある程度の立場にある者は皆鍵を持っているから、扉が開いたからといって司書が顔を出す必要はない。けれども彼はいつだって訪れる度に笑顔でこんにちはと告げてくる。クラウスが書棚を抜けるのとぴったりのタイミングで小部屋の中から出てきた黒髪の青年は、今日も穏やかに微笑んだ。
「こんにちは、クラウスさん。こちらにいらしてたんですね」
「ええ、テレーズさんに派遣されまして。ああ、キリルさん、おかまいなく」
おそらくクラウスが書庫の扉を開けた時から準備していたのだろう、小部屋の隅で魔法の火で温められたポットがことことと音を立てていた。もてなし好きのキリルは、知り合いが来る度こうしてお茶を御馳走しているらしい。昔、書庫で火なんてと顔を顰めたら、大丈夫ですと彼は小部屋の壁を指差した。なぜかそこだけ石造りのそれは、前任者が工事したものらしい。一日中籠ってたらお茶の一杯も淹れたくなるもんねえと国王が笑ったため、既に公認となっている。
「お忙しいのに大変ですね。テレーズさまはご健勝ですか?」
「こちらが困るくらいにお元気でいらっしゃいますよ。女は30を過ぎてから逞しくなるんだとか仰ってます」
実はもう40近いのだけれど、とミューズ首相官邸にいる己の上司にこっそりと笑みを漏らした。
現在のデュナンでは立憲君主制を敷いている。かつてノースウィンドゥと呼ばれたこの地で国王アス・デュナンが国を治め、かつてジョウストンの丘と呼ばれたかの地で首相テレーズ・ワイズメルが執務を行う。今はまだ国王の権力の方が強大だが、徐々にそれが逆転していくであろうことを、クラウスたちは知っていた。
いずれ、僕がいなくても良い国に。
それが国王の願いだった。老いることのない彼に全てを背負わせるほど恥知らずな者はこの城にも官邸にもいない。少しずつ少しずつ、彼の背負う荷を皆で分け合っているのが今のデュナンなのだ。
「どうぞ」
ことりとキリルがカップをクラウスの前に置いた。クラウスの好きなハーブの香りが漂っている。会うのは数ヶ月振りだというのにこういった細やかさを忘れないところが、キリルという青年の皆に好かれる所以だった。
「いただきます」
キリルがこの書庫の司書に就任したのは一年ほど前のことである。ここの前任者はニューリーフ学院長エミリアの部下の女性であり、彼女の産休のために派遣されてきたのがキリルだ。彼はここに来るまでグリンヒルで厄介になっていたらしい。前任者は育児が落ち着くまで休みをとるそうだが、彼女が戻ってきたあとキリルがどうするのかは聞いたことがない。
「随分と、北の方が騒がしいようですね」
「……ここまで聞こえてきますか」
それは今回クラウスがデュナン城に来訪した理由そのものだ。ハイランド県で暴動が起こっている。それぞれは小さなものだが、数が多く、下手をするとひとつの巨大な勢力にまとまってしまいそうだった。
「噂が巡るのは早いものですからね。特に、商いをする人にとっては重要ですし。あとでハンスさんを訪ねてみては如何ですか」
「そうしてみます。若者に諭されるとは、まだまだですね、私も」
「失礼だったならごめんなさい。でも僕には年の功がありますから」
そう言ってキリルは石の壁の向こうにある書棚へと視線を向けた。本って結構色んな事を教えてくれるんですよ、司書は内緒話のような声で告げる。
「そう言えば、キリルさんの本業は歴史学者でしたか」
「はい。学者なんて、そんな御大層なものじゃないんですけどね。主に群島の、戦いの歴史を」
「でも、ここしばらく群島は穏やかなものでしょう。大きな争いがあったとは聞きませんが」
「ええ、僕の研究のテーマは古い戦争がどのように伝わっていくか、ということです」
クラウスも歴史は好きだった。昔は特に軍略物に憧れていた。今はあのころのようにわくわくした気持ちで戦記の頁を捲ることはないけれど、人の営みの軌跡を辿るのは今でも好きなことの一つだ。
キリルの研究の話を聞いてみたいと思った。赤月の出身であるはずの彼が、なぜ群島の歴史に携わることになったのかも。しかし、時間はあまりない。今回の訪問では数日滞在する予定だが、その殆どが国王たちとの会議に費やされることになる。
「いつか、聞かせてほしいですね。あなたの研究の話を」
「大したものではありませんよ。そっちでは食べていけないから、こうやって司書のバイトをしてるんです」
「……アルバイトだったんですか、司書は」
「はい、そうなんです、実は」
顔を見合わせて、悪戯が知られたときのような声で笑った。ミューズを出て以来、知らず張っていた気がすとんと抜けた気がする。
「王佐には秘密にしておきましょう、あの人は怒るから」
「うちの司書をバイト感覚で引き受けるとは何事だ、とか言われますね」
「王には言ってもいいかもしれません、あの人は笑うでしょう」
「こんど国王代理のバイトでもしません、って言いかねませんね」
「それはちゃんと断ってくださいね」
「もちろん。きちんととんずらします」
「できますか?」
「実は僕、とんずらの名手を友人に持っているんです」
どんな名手だ。言わずにクラウスは笑った。本当に、この青年は人を穏やかな気分にさせるのが上手い。
「私はそろそろ用事があるのでお暇しなければなりません。お茶、ご馳走さまでした」
「いえいえ。疲れたらまた、飲みにいらしてくださいね。日が落ちるまではバイトの時間なので」
「しっかり仕事に励まないと駄目ですよ、アルバイト司書殿」
「これは失礼しました、首相補佐官殿」
声は真面目に、しかしその金の瞳を悪戯っぽく瞬かせながら黒髪の司書は言った。
「では、行ってきますね」
「はい、行ってらっしゃい」
穏やかに別れの挨拶を交わし合う。クラウスはゆっくりと立ち上がった。