ふわりと風の揺れる気配がした。
 いつもの「お客さん」が来たのだろう。キリルは幾つかの書籍を抱えたままそっと扉を開けて、書棚に埋もれるように設置されているテーブルに向かって歩を進めた。
「こんにちは」
「……何か用?」
「いえいえ。ごゆっくり」
 いつも通りの挨拶にキリルは緩く微笑む。するとお決まりのように「お客さん」の少年は眉を顰めた。
 少年がこの書庫に顔を出すようになったのは10日程前のことからだ。いきなり転移魔法で登場した少年魔術師にはじめは面くらったが、彼は書庫の鍵こそ持っていないものの、王の署名入りの立入許可書とトラン共和国の身分証明書を所持していた。王や王佐が書庫の許可書を発行することはさほど珍しくないので、キリルはあっさりと納得したのだ。
 綺麗な子だな、とキリルは思う。常に風を纏って現れ、淡い色素を書庫に溶け込ませている。少年の姿で如何にも魔術師然として佇み、時折瞳に老成した影をよぎらせるあたり、どことなくシメオンに似ている。
 そこまで考えてから、猛烈に申し訳ない気分になった。いくらなんでもシメオンと同列に語るのは失礼である。
 キリルは気を取り直して、腕に抱えた書籍を戻すべく視線を書棚へ巡らせた。
 グリンヒルにいた頃も含めれば、この国にはもう2年近くいることになる。キリルが書籍に携わりやすい職業を選んでいるのは、紋章砲の記述を探しているためだ。昔の群島に紋章砲という兵器があった事実は消せないし、消すつもりもないが、紋章砲の使い方や邪眼について触れているものは、こっそりと処分したり見つかりにくくしたりしていた。100年以上の時を経て流石に砲弾は滅多に発見されないが、未だ砲門は所有されている場合があるからだ。
 リノさんも、どうせなら砲門ごと処分してくれれば良かったものを。
 とうの昔に鬼籍に入った人間に文句を言ってもどうしようもないが、溜息の一つも吐きたくなる。現在でも群島諸国連合軍が紋章砲を所持していることは他国にも周知の事実であり、そのことから紋章砲に興味を抱く人間も決して少なくはないのだ。
 この国でも紋章砲に関する記述は見つかっている。グリンヒルでもこの書庫でも、既にキリルは対応済みだった。それでも未だデュナンに留まっているのは、紋章砲そのものがこの国に眠っていることを知ったからだ。
 幾つかの文献からそれは間違いないと考えたが、城で働きながら探ってみても、どうやらデュナン国軍は所持していないようだ。ならば地方軍かと思っているのだが、どこからどうやって手を付けるか決めあぐねている。
 すべての書籍を戻し終えて、キリルはその場で伸びをする。その瞬間に目に入ったテーブルの上の書籍に背筋がひやりとした。少年が積み上げたものである。幾つかは見覚えがないことから、彼の私物だと思われた。問題はそのラインナップだ。
 キリルの立っている位置からは数冊の背表紙が読める。一番下にあるのは一般的な群島の歴史書。その上は群島解放戦争について書かれた書籍だ。一番上にあるのも同じ戦争について記されたものだが、著者はターニャという昔クエストで世話になった女性で、キリルの知る限り最も詳しい群島解放戦争の歴史書である。その隣に広げっぱなしになっているのは同じ著者がキリルの戦いについて簡潔に記したもので、核心には触れていないがその記述の多くはフレアからの伝聞である事実だ。少し離れたところにあるのはレイの仲間だったアグネスという女性が記したエレノア・シルバーバーグ言行録。揃いも揃って、という並びだ。
「……ルックくん、群島について調べてるの?」
 声をかければ、少年は驚いたように顔を上げた。今まで彼の読書の邪魔をしたことはなかったからだろう。
「……そうだけど、何。最近の司書は利用者の読む本をいちいちチェックしてるわけ」
「そうじゃないけど……。今までは紋章学に関するものばかりだったから、どうしたのかと思って」
 話しながらキリルはルックの手にある書籍を盗み見た。彼の私物であろうそれは、以前オベルでレイに見せてもらった古い書籍によく似ている。確か紋章砲の発生について書かれたものだ。
 なんでそんなものをこの少年が持っているのかわからないが、ここにラプソディアがあったらチェックメイトではなかろうか。キリルは自分の認識が甘かったことを痛感する。辿れる人間がいるのだ。
「ここにある紋章学の本は読み終わったからね。もともと大したものは置いてなかったし」
「そうなんだ…。紋章学、詳しいの?」
「…僕が魔術師なことは見ればわかるだろ。目でも悪いの?」
「うーん、世の中には魔術師でも実践ありきな人もいるからね」
「そんな愚かな魔術師と一緒にしないでくれる」
 今までまともに会話することがなかったから気が付かなかったが、なかなかの毒舌だ。この子が昔の仲間にいなくて良かったとキリルはしみじみ思う。この毒舌で、魔術師で、シメオン系外見で、しかもおそらく風属性。騒動は必至である。
「群島の何を知りたいの?良かったら相談に乗るよ」
「…あんた、詳しいの」
「それなりにね」
 少年が紋章砲と答えないことを願っていた。冷や汗を掻くキリルの心中など知らないルックは、少し訝しげに眉を顰めてから淡々と言葉を紡いだ。
「紋章砲と召喚魔法の関連について調べてる」
 ……チェックメイトだ。キリルはこっそりと溜息を吐いた。