共感も納得もいらない。同情なんてなおさらごめんだ。
でも理解しろよ。理解しようと努めろよ。
それは天才の義務だ。それをしないおまえは傲慢だ。
それは突然の来訪だった。それでも――予期していた来訪ではあったかもしれない。
「秀吾ちゃん、お兄ちゃんが入ってこいって言うてるで。…ゆっくりしてってな」
香夏はそれだけ言うと、静かにその場を去る。瑞垣はその後ろ姿を睨めつけて、それから視線を彼に移す。
「…何しに来たんや」
よかった、声は掠れていない。それに瑞垣は安堵する。これ以上無様でたまるものか。
門脇はゆっくりと扉を閉める。そして迷うことなく本棚のそば、窓の下の壁に寄り掛かる。悔しいことにそれは彼の定位置だ。
「帰れよ」
できるだけ冷たく瑞垣は言い放つ。けれども門脇も慣れたもので、それくらいでは引き下がらない。
「なんでや。いつも来てたやろ。いつものことやろ」
「やから、」
瑞垣は苛立ちを隠すこともせずに舌を鳴らす。
――いつものことじゃなくしようとしてるんだよ。関係を変えようとしてるんだよ。どうしてわかんないかねおまえはそれが。
顔を上げると門脇はやはり静かな表情でこちらを見据えていて、その余裕さに煽られる。だからこそ、ふう、と瑞垣はゆっくりと息を吐いた。
――乱されるな。
「…やあねえ秀吾ちゃんたらまだわからないの?俺は今、おまえに会いたくないって言ってるの」
「俺は会いたいから来たんや」
「何やソレ、愛の告白ぅ?」
「それでもええ。なんでもええ」
「…キモ。随分投げやりな告白やな。訳わからん」
「今会わんとあかんと思った。取り返しがつかなくなるような気がしたんや。だから来た。それじゃあかんのか?」
だから、取り返しがつかなくなるようにしたいんだって。反論されるのは面倒だからその論理はしまい込んでおくけれど。
「あかんな。会いたくない俺より優先される事情には思えん」
「…30分」
「あ?」
「30分、くれ。おまえと話がしたい」
「…長すぎや。俺はおまえに話すことなんかないで。5分で言いたいことだけ言って帰れ」
「5分…」
「カウント、今からな。4分59秒」
そう言って瑞垣は携帯電話をぱくんと開き、切りっ放しだった電源を入れる。アナログの時刻表示を眺めながらベッドに寄り掛かった。
なあ秀吾、もう勘弁してくれ。おまえの隣から俺を解放してくれ。
本当は俺は、俺やおまえが考えてるほど強くない。
瑞垣は小さな画面の中で動く秒針ののろさに声は出さずに悪態を吐く。それからことばを探しあぐねている幼馴染を気配だけで感じて、その不器用さに僅かな微笑みを漏らすのだ。
道化のようだ、彼も自分も。いつだって手探りでしか生きられない。
秀吾、おまえは俺の憧れだった。本気で羨ましくて、心の底から妬んでた。
俺がもっと馬鹿なら良かった。おまえがもっと愚かなら良かった。俺らが異性に生まれてれば良かった。
幼馴染なんかじゃなきゃ、良かった。
そうしたら俺は、おまえを嫌いでいられたのに。
そうしたら俺は、おまえを好きでいられたのに。
「…俊」
「2分52秒」
か細い呼びかけに、冷徹な声で残り時間を読み上げた。ちらりと視線を向けてやると、切羽詰まった瞳に捕らえられる。
「…離れたいと思うほど、話したくないと思うほど、俺はおまえの重荷だったか?」
門脇のことばはいつだってまっすぐだ、鬱陶しいほどに。どうも自分の周りには直球勝負が好きな人間が多過ぎる。
小さな溜息を吐くと何を勘違いしたか、門脇の肩が小さく揺れる。恐ろしいことを尋ねるかのように。
「俊、おまえは…野球をやめるほど、俺が重荷だったのか?そこまで俺が嫌いだったのか?」
重荷か?もちろんイエス。嫌いか?あたりまえだろう、大嫌いだ。それと同じくらい好きだ。
こちらを見つめる門脇の泣きそうな表情に、思わず瑞垣はゆるく笑む。
あほやなあと思う。そんなくだらないことを情けない顔で聞くな。
15年だ。15年も嫌いなだけ人間の傍にいられるほど自分はできた人間ではない。
おまえが嫌いだ。どうしようもなく嫌いだ。けれども馬鹿みたいに、同じくらいおまえが好きだ。
好きだよ、好きだ。好きだから離れるんだよ。醜くなってしまうから。
野球が好きだった。秀吾も好きだった。ずっとずっと、好きだった。
なあ、好きなものの前でこそ最高の自分でありたいと思うのは愚かしいことなのか?
強く在りたい、格好良く在りたい、そう望むのは当たり前の感情ではないのか?
なあ秀吾、俺はおまえに弱さなんて見せたくないんだよ。
おまえの眼に映る俺はいつだって頼もしい相棒で在りたいんだよ。
余裕かまして厭味ったらしく、アホやなおまえって鼻で笑ってやりたいんだよ。
視線はそらさないでいてやる。それは最低限のマナーで、最大限の意地だ。
「…俊?」
「返事はせえへんで。俺はなんも言うことなんかないって言うたやろ」
「…そうか」
でも、もう終わりだ。おまえと共に生きるのも、おまえの為に生きるのも、全部ひっくるめて終わりにする。
俺は強くなんてなかった。だから、
手を伸ばしても届かないならもう、隣なんか歩きたくない。
「あのな、俊。それでも俺はおまえの幼馴染みやし」
「1分30秒」
なおも必死でことばを紡ぐ門脇に冷たい時間を返す。余裕のない彼を眺めるのは好きだ。
「…それでも俺は、おまえのことが好きやからな」
…ああ、それから。彼のそういうところが大嫌いだ。
「言いたいことはそれだけか?」
ならば帰れと言外に含める。それがわからぬほど彼は愚鈍ではない。
「…ああ」
門脇はのろのろと立ち上がってドアに向かう。瑞垣はその背中を視界から追いやって、携帯電話をばくんと閉じた。同時にバイブレーションが唸りだして、サブディスプレイに表示された発信者に眉をひそめる。
電源を切ってしまおうと再び携帯電話を開いたところで――こちらに背を向けたまま、門脇が呟いた。
「もう、もとには戻れんのか…?」
そんな三流ドラマのような台詞を吐いて、門脇はドアを睨みつけている。
返す言葉などない。返したい言葉などない。
戻れないんじゃない。
秀吾、俺はおまえの隣になんて二度と戻りたくないんだよ。