あの夏を思い出すたびに疼く傷は、きっと一生消えないけれど。



 海音寺が門脇の決断を知ったのは薄桃の桜の花が綻び始めた頃のことだった。地元のヒーローの推薦放棄は横手のみではなく、新田でも派手に噂されたのだ。
 最初にそれを聞いたときは、衝撃で息を呑んだ。呼吸の仕方を忘れたように苦しくなった。責任や後悔に押し潰されそうになりながら、けれども門脇を羨んだ。原田の球のために強豪を捨てられる彼を羨んだ。彼のように原田の球にのめり込むことは自分にはできない。それは幸運なことであるかもしれないけれど、自分が天才ではないことの証明でもあるのだ。
 それから彼の幼馴染に思いを馳せた。決死の覚悟で野球と幼馴染から逃げ出そうとしたのに、第三者のために門脇から離れられなかった彼に。中途半端なまま、未だ野球に未練を残している彼に。
 自分は彼らから一体どれだけのものを奪ったのだろうか、と海音寺は思う。この現状の原因を生んだのは間違いなく自分だ。空っぽの夏を埋めるために彼らを利用しようと考えたのは間違いなく自分だ。
 その判断を後悔したくはない。するつもりもない。
 けれど、あの夏の罪悪感をゆるゆると薄らせつつある自分は、唾棄すべきものだった。






 高校に入って初めての練習試合の帰りのことだ。勿論新入部員の海音寺は試合に出場などできず、雑用を終えてチームメイトと談笑しながら普段は使わない駅に着いた時だった。突然立ち止まった友人を訝しく思ってその視線の先を追い、海音寺は納得する。
 そこにいたのは門脇秀吾だった。今、地元で彼の顔を知らない高校球児などいない。
「久しぶりじゃな」
 こちらに気付いてちょっと困った顔をした彼に、海音寺は自分から声を掛けた。友人が目を剥いて振り返る。それはそうだろう、自分と門脇を繋ぐ糸など本来ならば殆どない。
「時間あるか?折角じゃ、ちょっと話でもしていかんか」
 海音寺の誘いに、門脇は小さく笑ってええよと答えた。



 近くのバーガーショップで揃って烏龍茶を注文する。瑞垣だったらオレンジジュースだろうなと思うと同時に、彼と久しく会っていないことを実感する。
「海音寺は練習試合か?普段はこの駅、使わんやろ」
「うん、今終わったとこじゃ。門脇は?港北って確か、この1コ隣の駅じゃろ」
「ランニングがてら、いっつも一駅分、走っとる」
「相変わらずじゃなあ、おまえ」
「こないだ俊の妹にも言われた。そーゆーとこは全然変わんないって」
「あ、香夏ちゃん?」
「なんや知り合いか。そう、カナッペ」
「カナッペっておまえ、そのあだ名はどうなんじゃ…」
「昔のクセやから、今更変えられなくてな…。でも香夏ちゃんなんてよく俊が許したなあ、あいつシスコンやろ」
「え、マジか?実は俺、香夏ちゃんと話してること瑞垣に言ってないんじゃけど…」
「……それは後が怖いな」
「うわー、そーゆーのは早く教えてくれ…。どーしよ、次に瑞垣家に電話掛けるのが怖い」
 がっくりと項垂れる海音寺に、門脇が吹き出すように笑った。つられて海音寺も笑う。
「…安心した。ホンマは俺な、海音寺がどう反応するのか、ちょっと怖かったんや」
「…俺も、おまえに会うのが怖かった。シカトはなさそうじゃけど、睨まれるとか怒鳴られるとかは、甘んじて受けようと思っとったんじゃ」
「俺がおまえに怒鳴る?なんでや」
「なんで、って…」
 本当に不思議そうに門脇が訪ねるから、海音寺は戸惑う。
「…おまえを原田に会わせたのは俺じゃろ。それも、ただ新田東のためだけに」
「おまえのおかげで会えたんや。そりゃ今色々と困っとることはあるけど、それは俺の責任やろ。おまえを責める必要なんか、これっぽっちもないやろが」
 真面目な顔をしてそう言う門脇に、海音寺はようやく彼らの間の齟齬を掴んだ気がした。

 門脇は、優し過ぎる。

 彼は今怒るべきなのだ。身勝手な行動をした海音寺を責めるべきなのだ。
 なあ門脇、おまえのその優しさは誰も救わない。俺も、瑞垣も、お前自身も、救うことができない。
 過ぎる優しさは只の同情だ、もしくは逃亡だ。

「…門脇、あのさ」
「ん?」
「おまえ、これまでに瑞垣と本気の喧嘩、したことあるか…?」
「は?」
 門脇は、なんでそんな話になるのかわからない、と表情で語る。けれども海音寺にとって、それは確かに意味のある問いなのだ。

 なあ門脇、本当はおまえ、俺達のことなんかちっとも見てやいないだろう。
 本気であいつにぶつかったことなんか、ないだろう。
 瑞垣を信頼していると、尊敬していると、無二の親友だと言いながら、思いながら、
 その実、彼を見てなんかいないんだろう。
 おまえはいつだって前ばかり見ている。進むべき道ばかり探している。

 なあ、おまえ本当は、
 あいつの苦しみに心の底で気付きながら、目を逸らして知らない振りを続けてきただろう?

 それは優しさなんかじゃない。力の差への同情だ。理解からの逃亡だ。

 すう、と息を吸い込む。それから真っ直ぐに視線を門脇に向ける。
「門脇、おまえ、喧嘩してこい」
「……は?」
「喧嘩じゃ喧嘩。しっかり瑞垣と喧嘩してこい」
「なにがどうしてそうなるのか、ちっともわからんのやけど…」
「明白じゃろが。おまえたちに足りんのは相互理解と素直さじゃ」
「それがどうして喧嘩に…」
「そうでもしなきゃ口を割るわけないじゃろ、あの意地っ張りが」
 そりゃそうやけど、と苦笑する門脇に、じゃろ?と海音寺は重ねる。



 おまえはあいつを理解すべきだ。今更向かい合うことに臆するな。
 15年も傍に居たんだろう。隣で生きてきたんだろう。
 それだけの年月を過ごしてきたくせにぶつかることなんか恐れるな。
 俺だって本当は、

 おまえたちの隣に生まれたかった。