願ったのは、ただひとつだけ。
香夏が訪ねてきたのは、門脇家の庭の隅にひっそりと佇む梅がその花を散らしたころだった。
すっかり滅入っていた佳代は香夏の来訪を純粋に喜び――それからほんの少し、落胆していた。門脇を訪ねてきたのが彼女の兄ではないことに。
けれどもそれは仕方のないことだと門脇は思う。彼はきっと当分、この家には来ないだろう。
離別の時なのだ。
彼が自分を嫌いだと、そう言ったならば――言えたならば。
その時は離れなくてはならないのだと覚悟していた。
たとえ門脇が、どれほど彼の隣を望んでも。
「思ったより元気そうで、良かった」
リビングで佳代の歓待を受けたあと香夏は門脇の部屋にあがり、ちょっと迷った末に学習机の椅子に座った。そう言えば彼女がひとりでこの部屋に入ったのは初めてかもしれない。そんなことを考えながら門脇はベッドに腰掛けて口を開いた。
「まあ、ぼちぼちやな…。カナッぺは?」
「ちょっと色々あったんやけど…今は平気や。楽しいよ、中学」
「そっか、なら良かったな」
「うん」
そう言いながら香夏は、強い視線を門脇に向けてくる。
真っすぐな子だな、と思う。兄とは異なる意味で強い子だ。
彼女の凛とした強さは好きだ。けれども今はその真っすぐさが、門脇には痛い。
「聞かんの?」
「…何をや?」
「お兄ちゃんは、俊は元気かって、聞かんの?」
くっと門脇は息を詰める。それは聞かないのではない、聞けないのだ。
「なんで聞いてくれへんの」
責める口調だった。
「なんで秀吾ちゃんがお兄ちゃんのこと聞かんの」
香夏は視線を逸らさずに門脇を睨むように見つめる。
「なんでお兄ちゃんは秀吾ちゃんの隣におらんの。なんで…」
「カナッペ」
遮るように声を出した。けれども香夏は止まらない。
「二人とも、ばかみたいや。必要なのに必要ない振りなんかして」
「なあ…」
「秀吾ちゃん、知っとる?今お兄ちゃん、ぼろっぼろやで。めちゃくちゃカッコ悪い。ほんまダサい。今までとは、秀吾ちゃんの隣にいたころとは大違いやで。あんなカッコ悪いお兄ちゃんは嫌いや、笑わない秀吾ちゃんも嫌いや。二人して何の意地を張っとんの?ばかみたい」
「カナッペ」
強い口調で呼んだ。香夏の肩が、びくりと震える。
門脇は、ゆっくりと息を吸って、吐き出した。
「どうにもならんことも、ある」
「…そんなん詭弁や」
「俺に俊が必要なんは…認める。でも、それでも俺は、あいつから離れる」
「なんで」
「勝つために」
「…誰に?」
「…俺が勝たなきゃならん相手に」
「なんで離れなきゃ勝てへんの?」
「俺は…俊に甘え過ぎるから」
本音と誤魔化しが入り混じった答えだった。そう感じているのは本当のことだけれど、それだけが理由なんかでは勿論ない。甘え過ぎだと思ったことも、彼にもたれ掛かることで弱くなる自分を感じたことも、数え切れないほどある。それでも彼から離れなかったのは、何と天秤に掛けても彼の隣にいることの方が大事だったからだ。
けれども、彼がそれを望まないならば。…違う、望まないことを口にしたならば、その時は握りしめた手を放さなければならないのだとわかっていた。
それだけが、自分に出来る彼への贖罪だ。彼の痛みに目を瞑り続けた自分ができる、唯一の。
香夏は少し考えるように、視線を地に下ろした。けれどもすぐにそれを戻して、再びまっすぐに門脇を見据える。
「あんまり納得できへんけど、秀吾ちゃんがそう言うならそーゆーことにしとく。でもそれは半分の論理や」
「半分?」
「秀吾ちゃんだけの理屈や。お兄ちゃんはどうなるん?」
門脇は苦笑した。それこそ、今の状態は彼の望みだ。
「馬鹿にせんといて」
香夏はぴしゃりと言い放つ。
「うちはあの捻くれ者と12年も兄妹やっとるんやで。お兄ちゃんと秀吾ちゃんがただの仲良しだなんて思っとらんよ。やって、秀吾ちゃんは眩しいもん。どんなに頑張ったって秀吾ちゃんには届かんって、そうお兄ちゃんが考えとること、知ってるもん。だけどな、それでも、お兄ちゃんは秀吾ちゃんのこと好きに決まっとる。隣にいたいに決まっとるんや」
「…なんでそう思うんや。俺がおらんほうが、あいつはあいつの野球ができるやろ。…あいつは野球をやめたけど」
「そこや」
言って、香夏は人差し指を立てる。多分笑ったのだろう、けれども門脇の目には彼女が泣いたように映った。
「知らんやろ、秀吾ちゃん…。お兄ちゃんにとってはな、きっと、野球も秀吾ちゃんも、おんなじもんなんやで」
心臓を刺されたかと思った。
最後に残った、たったひとつの願いだったのだ。
今度こそ離れていくことはわかっていた。彼を苦しめるだけの自分の傍に居続けるはずはないとわかっていた。だから覚悟を決めていたし、彼の本心を確認したならば、それ以上は抗うまいと思っていた。最後通牒を言い渡されたあの日に、それから彼に餞別を贈ったあの日に、離別を決意したのだ。彼に甘えないためという言い訳を用意して。
でもどうか、どうか彼に、野球を続けてほしかった。野球を愛する彼にそれを捨てて欲しくなかった。自分の好きな彼の野球を自分の手で奪い取ることだけは、絶対にしたくなかったのだ。
それなのに。
「秀吾ちゃん…?」
香夏の呼び掛けに応える気力はなかった。
なあ俊、
俺はいつもおまえを頼るばかりで、
おまえに甘えるばかりで、
おまえから奪い去るばかりで、
結局なにひとつおまえに与えられず、おまえを救えず、
ばかみたいに隣に突っ立ってるだけだったな。
…だから、返そうと思ったのに。
おまえにおまえの野球を返そうと思ったのに。
おまえに野球を続けてほしかった。
願ったのは、ただそれだけだ。