どうしようもない恋をしている。


 エドワードが家を出たのは太陽が随分と高くなってからだった。けだるい体をそれでも動かせたのは、ロイが昨夜、エドワードが寝ているうちに勝手に清めておいたからだろう。彼はそういったところに卒がない。それこそが彼の経験の豊富さを物語る癪な部分なのだけれど。
 兎にも角にも、司令部に行かない訳にはゆかない。昨日は突然拉致されたせいで何もできなかったのだ。今日こそ報告書を提出して、それからアルフォンスと共にアードリー翁を訪ねたい。3ヶ月ほど前にイーストシティを訪れたときに知り合った、気のいい錬金術師だ。さほど凄い術者ではなく、国家資格も持ってはいなかったが、その蔵書は豊富だった。既に奥方を亡くして一人で生活していた彼にとってエドワードたちの訪問は歓迎すべきものだったようで、本当の孫のように接してくれた。本を読ませてもらいに行ったのに、結果としてはアードリー翁の昔話を聞いている時間のほうが長かったくらいだ。前回は予定が詰まっていたので未練の残るまま彼の家をあとにしたが、今回はじっくり読ませてもらおうと思ってやって来たのだ。
 街の屋台でホットドッグを買って食べながら司令部へ向かう。警備には顔パスで通してもらって、司令室にひょっこりと顔を覗かせる。忙しい案件はないようで、室内には穏やかな空気が流れていた。
「お、大将。重役出勤だな」
「うっせ、報告書を仕上げてたんだよ」
「大佐なら奥にいるぜ。ご機嫌伺いしてきてくれ」
「へーへー、機嫌を下げてきてやるよ」
 ハボックの軽口をかわして執務室に向かう。ノックをせずに入るのも、既にお互い慣れっこだ。
「やあ、君か」
「よお大佐。報告書持って来たぜ」
「ご苦労。今読むから少し待っていなさい」
 そう言う彼の瞳に昨夜の熱の残滓はない。いつだって自分たちはそうだ。
 彼の後姿に焦がれる自分を知っている。黒髪にときめく自分を知っている。その指先で触れて欲しいと願う自分を嫌になるほど理解している。けれどもそれを言葉にすることなんてできやしないのだ。それは恥ずかしいからなんかじゃなくて、後ろめたいからでもなくて、言葉にしたらきっと、止まらなくなってしまうからだ。
 どうしようもなく自分は幼いとエドワードは思う。彼が好きで好きで仕方ないのに愛してやることができない。恋することしかできない。彼を手に入れたらきっと全てを望んでしまうに違いない。恥も外聞もかなぐり捨てて、彼の全てを欲しがってしまうに違いない。
 恋なんて奪うものだ。彼の全てを奪いたくなってしまうものだ。全部奪って全部捧げてぐちゃぐちゃにしてしまうものだ。自分はそういう恋しかできない。
 全て包み込むように、穏やかに彼を愛することなんてできやしない。

 なあ、だから大佐、あんたの想いは充分わかっているけれど。
 俺はあんたから奪うことしかできないから。何も与えてやれないから。
 あんたを愛せない俺を、頼むからまだ愛さないでくれ。



「…鋼の」
 ロイにそう呼ばれた瞬間、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。続いて間延びした砂色の少尉の声。ロイがついと視線を巡らす。
「ハボックです。いいすかー?」
「ああ、入れ」
 うーっす、と火の点いていない煙草を咥えながらハボックが入室する。
「大佐、言われてた資料の整理終わりましたよ。あとコレ中尉から追加の書類です。俺は今から市内巡回行ってきマス」
 その言葉を聞いてエドワードはぴょこんと右手を挙げる。
「あ、少尉見回り?じゃあさ、ついでにちょっと乗っけてってくんねえかな」
「そりゃ構わねえけど、何処へ?」
「待て鋼の。まだ報告書の確認は済んでいないが」
「まだ読み終わってないんだろ。だったら丁度いいじゃん、俺が帰ってきたら質問なり何なりしてよ。つーわけで少尉、アードリー爺さんって知ってる?街外れのデカい家の」
「…アードリー?」
 ハボックの声色が変わる。不審に思って見上げると、彼は困惑した顔を上司に向けている。
 ふう、とロイが息を吐いた。

「…鋼の。君が訪ねようとしている老人は、つい3日前に亡くなった」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。思わず声が低くなる。
「…どーゆーこと」
「どうもこうもない。3日前の明け方に彼が亡くなったと言っている。既に葬式も済んだ」
「待てよあんた、昨日俺が爺さんの名前出したときには何にも」
「言ってどうする。夜更けに到着しておいて、あれから故人の家に向かったとでも?常識で行動しなさい」
「行かねえよ!行かねえけど、それにしたって何も言わないなんてないだろ。知ってたら暢気にメシなんて食わなかった」
「君が夕飯を抜いたところで彼も浮かばれまい。むしろ規則正しく生活してくれることを望むだろうよ、君は随分気に入られていたみたいだから。私は彼と面識はなかったが、遺言に君の名前があったので後見人として葬式に参列してきた。彼には既に成人して別に暮らしていた息子がいて、土地や家の財産は順当に息子に譲るそうだが、蔵書は君に受け取って欲しいそうだ。息子にその価値はわからないからと」
「ちょっと待てよあんた…」
「何だ?ああ、死因は病気だ。君が彼を訪ねた当時、既に死病に侵されていたそうだよ。知識を受け継いでくれる存在が現れたことが余程嬉しかったんだろう、君が去ってすぐに遺贈を決めて息子にも伝えていたらしい。異論はないとのことだ。とは言え君は根無し草だから、とりあえず私の家に保管することに決めた。1階の客間の隣の空き部屋はわかるだろう?近々そこに運び入れるから時間のある時にでも読めばいい」
「待てって!」
 エドワードは強く叫んでロイを睨んだ。視界が微かに滲んだのには気が付かない振りをした。ハボックの右手が優しく頭をくしゃりと撫でる。
「あんたは…死を悼む時間もくれないのか」
 エドワードの眼光など物ともせず、さてねとロイは肩を竦める。
「君こそ代理で動いた私の労を労うべきだと思うが。それと先回りして言っておくが、後悔するのは馬鹿げている。彼の命を救うために君にできることなど何一つなかった。くだらん感傷に浸る暇があるなら彼の好意を無駄にせずに読書に勤しむんだな」
 そう言ってロイは椅子に深く腰掛けたまま、胸の前で慇懃に手を組んだ。
「ハボック、貴様はさっさと巡回に行って来い。鋼のも付いて行っても構わないが、まあ今の状態で行くなら明日にした方が良いだろうな。謝辞のひとつでも考えておけ」
 ハボックは敬礼したけれども立ち去らない。気遣わしげにエドワードの顔を覗き込んできた。おそらく自分はみっともない表情を晒しているのだろう、大丈夫か、と小さな声を掛けられる。それに被せるようにロイが強い口調で言った。

「泣く余裕があるのか鋼の。随分と悠長なことだな。それよりも君が今すべきことを考えろ」

 ハボックがロイを睨んだ。けれども優しさの片鱗も窺わせないロイの表情を見て、エドワードは小さく微笑う。



 あんたなら、そう言ってくれると思ってた。