一足飛びに大人になんかなるな。おまえはまだ、子供でいることが許される。
ホークアイに事情を話し、定時で帰宅することを許されたハボックは、6時になった途端にエドワードを連れて軍部を出た。泣きそうな顔をして、けれども泣かない子供をこれ以上この場に置いておきたくなかったのだ。軍部という冷酷な場に。優しさを与えてやれない後見人の傍に。
ハボックにはどうしても不思議でならない。誰よりもエドワードを気に掛けながら、突き放すような態度しか取らない上官のことが。そう言うとホークアイは、それしかないのよ、と小さく溜息を吐いた。
「どーしたんだよ?まったく軍部の人間って人さらいが多いよな、中佐といい大佐といいあんたといい!どーしてくれんだよ、アルに何も言わずに出てきちまったじゃねーか」
ハボックの部屋で胡坐を掻いて踏ん反り返り、文句を述べるエドワードの様子にハボックは苦笑する。子供の割に、彼は何事もなかった振りが得意だ。
「アルには昼のうちに伝えといたぜ。兄さんをよろしく、だとさ」
「…少尉、いつの間にそんなに手回しがよくなったんだよ」
「ま、日々上司に鍛えられてっかんな」
ハボックは隣に座り、煙草に火を点けてから右手を彼の頭に置いた。
「ところで明日、じーさんの家一緒に行くか?」
「…大丈夫だよ、アルと二人で行く。少尉は真面目に仕事しろよ」
「まーまー、そーいうなって。あの家遠いだろ、運転手になってやるから」
「……少尉がモテない理由、わかった気がする」
「うえ!?なんだよ、うっとーしかったか?」
「いや、そうじゃなくて…」
エドワードは指先で頬を掻いた。
「あんたはさ、きっと誰にでも優し過ぎるんだよ」
エドワードはそれからほんの少しだけ涙を流した。ハボックは、人の死に直面してもわあわあと泣くことのできない彼を不憫に思う。涙すら流せない、彼の弟も。
しばらく背を撫でてやっていた。下向いたまま、ぽつりとエドワードが漏らす。
「…あんたが兄貴だったら良かったな」
そりゃ奇遇だな、俺もそう思ってたよ――。
そう言おうとしてハボックは瞬時に言葉をなくした。目の前のエドワードの首筋に紅い痕を見つけたからだ。
「おい大将……、おまえ、これ、どーした…?」
「は?」
不審そうにエドワードはハボックの視線を追い、顔色を変える。
「や、なんでもねーよ、ただの虫刺され」
「その言い訳が苦しいってことは自分でもわかるよな?」
「…あんたが気にすることじゃねーよ、なんでもないからほっといてくれ。な?」
それがちょっと花街に行ってきました、なんてことで付いた痕ならハボックだって気にしないのだ。けれども彼はそんなことができるタイプではないし、年齢的にも追い返されてしまうだろう。何よりこれはひどく新しい。
彼がイーストシティにやって来た昨日、宿にしたのは己の上司の家で。
ならば、それは。
「大佐なんだな…?」
エドワードは黙り込んだ。沈黙は肯定の証だろう。
「いつから…?なあ、咎めるつもりはねえんだ。けど、なんだっておまえがあの人と」
「付き合ってる訳じゃねえよ。なんつーか、まあ、若気の至り?」
「若気の至りって…。おまえはそんなんでヤられんの許すような奴じゃないだろ」
「……まー、そうだな」
「つーことは、おまえ……」
言葉を失くしたハボックに、ごめんなとエドワードが囁いた。そんなことを言わせたかった訳ではない。
「大将、おまえはあの人が………、大佐が好きなのか……?」
困ったようにエドワードは微笑った。そんな大人びた表情をさせたかった訳でもない。
「あんたがホントに兄貴なら良かったな。そんで中尉は姉さん。母さんはやっぱり母さんだしさ。そんであいつが父親なら良かった。そうすればきっと、俺は何も間違えなかった。母さんの弔い方も、人の愛し方も、恋の相手も。きっと、間違えずにすんだ…」
どうしてあの人なんだ。
可愛い幼馴染みも旅先で出会った美人もいるだろう。なんで、よりによって、あの人に惚れちまうんだよ。
おまえの背中を押してやりたかった。おまえの支えになってやりたかった。
おまえの夢も恋も全部、応援してやるつもりでいたんだよ。
けれど、それだけはできない。
一生付いて行くと決めたあの人のリスクになることだけは、頑張れって言ってやれない。
歯噛みするハボックに、エドワードは穏やかな声を掛けた。
「言いたいことはわかってるよ。大丈夫、ぜってえバレないようにするから。今は少尉相手だから気が緩んじまってたけどさ。責任取れなんて死んでも言わねえし、俺は絶対あいつの重荷にも足枷にもなんねえよ。だから大丈夫、あんたが心配することなんかなにもない」
「ちげーよ…そりゃそれもあるけど…」
「じゃあ何?」
本気でわからないと首を傾げたエドワードを、ハボックは思い切り抱き込んだ。
ばかやろう。
おまえがあの人の負担になるようなことをするなんて、疑っちゃいない。
心のままに動くことができないと理解しているおまえの賢さが、
おまえの背を押してやれない自分の不甲斐無さが、
どうしようもなく、悔しいだけなんだ。
少年時代を駆け足で通り抜けようとするおまえたちの兄代わりでありたかった。
自分たちの前でだけは、ただただ子供であることが許されるのだと言ってやりたかった。
年相応の顔で笑っていいんだと、そう伝えてやりたかった。
大人になんかなるなと本当は声に出して言いたい。
それを言ってやれない自分が、情けなくてたまらない。