そろそろかしら。そう思った途端に電話のベルが鳴る。


「…ええ。構わないわ、特に予定はないし。…そう、あなたの仕事が終わった時間でいいわよ」
 本日、リザ・ホークアイは非番である。いつもよりほんの少し遅く起きて、近くのカフェでブランチを済ませて。彼の休憩時間であろう昼過ぎに家にいるようにしたのはこの電話を予測していたからだ。
 昨夜エドワードを連れ帰った彼が少年と上官の関係について何かしらを悟ってしまうのは、彼に帰宅の許可を出した時点でわかっていた。それでも彼をそのまま帰したのは、知ってほしかったからなのかもしれない。ホークアイがひとりで守り続けてきた、この肩にはには少しだけ重い、あの二人の秘密を。
「…ああ、それから。私服で来て頂戴ね、ハボック少尉?」
 電話の向こうで彼が息を呑んだのがわかる。まるでデートのようだとホークアイは小さく笑った。


「いい店ですね」
 ホークアイのロングスカート姿(というよりも、私服姿だろうか?)に慣れないらしいハボックは、目のやり場に困って店内を見回している。なんとも初心なことだ、とホークアイは内心呟いた。知り合いの店員に声を掛けて、奥の半個室に案内してもらう。庶民的な店だけれど、その場所ならば他人に声を聞かれることのないつくりなのだ。
「そうでしょう?あの人が絶対来ない店よ」
「絶対?そりゃ大佐はデートにこーゆー店は使わないでしょうけど、ヒューズ中佐あたりと一緒なら有り得るんじゃないすか」
「いいえ、ないわ。そういう決まりだから」
「…決まり?」
「ええ。仕事柄、私と大佐は四六時中顔を突き合わせているでしょう?そうするとね、いくら信頼してる相手でも顔も見たくなくなる時があるのよね…」
「はあ…」
「それでも飲みに行きたい時はあるでしょう。というか、あの人の顔を見たくない程苛立ってる時は大抵飲みたくなる時ね。だから、お互いに絶対に立ち入らない店を約束したの。そしてここが私の店。あの人は絶対に来ないから、あなたも大佐の顔を見たくないときはここを使うといいわ」
「…いいんすか?」
「構わないわよ。ただし、他の人には広めないで頂戴ね」
「そりゃどうも…」
 解釈に迷っているらしいハボックとその逡巡を眺めているホークアイの前に、ビールとピザが運ばれてくる。喉を潤してからホークアイは言った。 「そういう訳だから、少尉。他人に、それからあの人に聞かれて困る話を、ここではしていいわよ」
 つまり、本題に入りなさいと。そう言外に含める。敬令でもしそうなほどにハボックの背筋が伸びた。
「ハイ!…あのですね。中尉は、大佐とエドのことを、どこまでご存知でしょうか…?」
「どこまで、とは?」
「ええー…。後見人と被後見人の立場以外に、何があるのかってことです…」
「…冗談よ。そんな書類に埋もれた大佐みたいな表情をしないでくれるかしら?…あなたが知っていることはおそらく私は全て知っている。だから全部話してくれて構わないわ」
 そう言ってやると、ハボックはあからさまに安心した顔をする。だからホークアイは続けた。
「知ってしまったのね?」
 エドワード君の恋心も。彼があの人の家に泊まる理由も。
 ハボックはゆっくりと首肯した。


 わかんねえんです、と彼は呟く。
「一晩考えて、エドがそうなっちまったのは、わからなくもないな、と。あいつをどん底から拾い上げたのは大佐でしょう。憧れるのも…その憧れが恋に変わっちまうってのはなんでだよと思わなくもないっすが、まあ理解の範囲内かと。でも大佐は違うでしょう。あの人がエドを可愛がってるのは知ってましたけど、実際に手を出すリスクがわからん人でもない。しかも手え出してる癖に、付き合っちゃいないんでしょうあの人ら?内心可愛くって仕方ないのに態度はえらい冷たいし!」
「困ったものよね。30近くにもなって、14歳の子供に手を出してしまうなんて」
「全くです。犯罪じゃないっすか」
「犯罪よ。…でも私はあの人を止めるつもりはないわ」
 ハボックが目を剥く。
「なんでですか。中尉は絶対に止めると…」
「そのつもりだったわ。世間的にもエドワード君にとっても、よろしくないことだもの」
「なら、」
「でもね、エドワード君に言われたの。お願いだから止めないって。間違ってることも迷惑かけてることもわかってるけど、そうすることでしか繋がれないから、お願いだから許してって」
「……」
「泣きそうだったのよ、あのエドワード君が。あの誇り高い子が」
「…でも、」
「だから、いいのよ。二人がそれでいいならいいの。今できるあの人たちにとっての最善がそれだというなら構わない。どちらにせよあの二人の関係は隠さなくてはならないのだから、私たちがすべきことはそれを全力で遂行することよ」
「……あれじゃあ、あまりにも大将がかわいそうだと思いませんか」
「そうかしら。だってあの人が彼を叱らなかったら誰が叱ってやれるの。誰が責めてやれるの」
「責める必要が?」
「誰かに責めてもらわなければ彼は自分で自分を責めるわよ。それだけはさせたくないわ」
「ああ…」
 ハボックはしばらく考え込んで、それからよし、と笑顔を見せた。この切り替えの早さは彼の長所だ。
「じゃあそーゆーコトなら、俺はあいつを思いっきり甘やかすとしますか。大佐が羨むくらいに」
「ええ。勿論私もそのつもりよ。とろっとろに」
「とろっとろ…。ああ、いやまあ、それにしても意外でしたね。俺は中尉はあの二人のこと絶対反対派だろうと思ってましたよ」
「あら、どうして?」
「どうして、って…。色々あるでしょう、モラルとか」
「そういうのはね、時としてどうでもいいものになるのよ。なにしろ私は、」
 ホークアイは一旦言葉を切る。それから艶然と微笑んだ。
「あの人たちの幸せを、きっと誰より願ってるもの」




 大佐。あなたが地獄に堕ちるなら、私も共に堕ちましょう。あなたが闇に呑まれるならば、私も共に呑まれましょう。あなたのためにこの命を失うことを恐れるような生き方なんてしていない。
 あなたを愛してなどいない。恋なんて笑ってしまう。けれどもあなたを信用している。信頼している。あなたの夢を信じている。あなたの未来に、夢を見ている。
 あなたを誰よりも理解できるという自負がある。同じ闇に埋もれながらも共に邁進してきた絆がある。けれどもだからこそ、私はあなたを救えない。

 光などないと思っていた。闇など晴れないと思っていた。あのイシュヴァール以来降り止まぬ雨は、枯れることなどないのだと思っていた。吹き荒ぶ風は凪ぐことなどないのだと思っていた。私たちは一生茨の道を歩むのだと諦めていた。あなたの幸せを見つけることなんて、諦めていた。
 そんな時だった、彼に出会ったのは。

 彼は、エドワードは、綺麗なだけの子供ではない。錬金術師としての、人間としての、ひとつの重い罪を抱く子供だ。けれど、それでも光を失わない子供だ。瞳に未来を映す子供だ。罪を背負っても、闇を抱いても、それでも胸を張ってよいのだと、未来を夢見て良いのだと、全身全霊で叫んでいる子供だ。
 何度間違えても、何度傷付いても、それでも未来を見据える彼は、
 まさしく希望だった。雨上がりの、七色の希望だった。
 泣きたくなるほど嬉しかった。あなたを救うものがこの世界に存在することが。あなたが贖罪のためだけに生きなくて良いことが。
 
 だから、大佐。堕ちるのならば私と共に。救われるのならどうか彼と。

 あなたが救われるならその時は、救済を願うことを私も己に許すから。
 どうか彼に縋ってください。どうか彼の手を離さないでください。


 おそらく私は世界で一番、あなたの幸せを願っている。