ササライは大地のざわめきを感じていた。
 いつになく、五月蠅い。戦士に踏み締められる土たちはいつだって騒がしいけれど、常とは異なる、彼らの戸惑いのようなものが伝わってくる。否、歓喜かもしれない。
 ササライにはその理由がわからない。これまでの戦争と、今日の戦いと、何が違うというのだろうか。

「神官将。犬は忍びが連れて帰った」

 唐突に後方に現れた黒騎士がそう告げる。背後を取られた気味の悪さに眉を顰めた。
「構いません。それよりも転移を使うならば後ろではなく前に現れろと教えませんでしたか、人外」
「フン、貴様らの都合など知るものか。俺は出るが、貴様は?」
「行きますよ。これ以上待たせると、あとあと面倒ですからね」
「あと、とやらがあればの話だがな。皇王には死相が出ている」
「おや、人外にもわかるものなのですね。てっきり、獣のような知能しかないのだと」
「言ってろ」
 フン、と荒く息を吐いてユーバーは転移する。去り際に一言、低い声で漏らしていった。

「おまえと同じモノがあるな。如何にも不味そうな形をしている」

 大地が騒ぐ。風が吹き荒れる。己と同じ魔力の波動が戦場を覆っている。



***



 ルックは風の声に耳を澄ませていた。
 争いは始まっている。けれども兄は未だ戦場にいない。忍びたちによるリドリーの奪還に気付いたのだろう。
 ルックはゆるゆると魔力を研ぎ澄ませて行く。風が歓喜に踊り狂う。溢れる魔力を追って全身を覆う風に、されるがままに身を委ねる。

 大地が震える。

 ああ、兄が来たのだ。魔力が共鳴するのを感じる。共鳴して、増幅し続ける魔力をおそらく兄は制御できまい。その理由を知らないが故に。
 愚かなことだとルックは思う。何も知らずに生きて行ける訳がないのに、信仰の名の下に瞼を閉じる兄を。

「ねえ、兄さん。僕はあんたには負けない」

 負けるわけにはいかないのだ。何も知らない彼には。知ろうともしない彼には。



***



 少年がひとり、魔力を迸らせながら立っている。
 ササライの率いる魔法兵団の歩みを止めたのは、戦場には似つかわしくないその光景だった。供も連れず、たったひとりで立ち尽くす彼は、ササライの姿を認めると淡く笑んだ。己と同じ顔をして。
「やあ、また会ったね」
「また君か…」
 ササライの言葉に、少年は首を傾げた。少年の一挙一動に風が走り、大地が騒ぐのをササライは感じる。
「僕以外に、誰があんたの相手をしてやるっていうのさ」
「君は何者なんだ。僕とどんな関係がある?」
「それをあんたが聞くの?本当に知りたいの?知らないほうがいいことだとしても?」
 少年は薄く笑った、いっそ嫣然と。馬鹿にされたかのような笑みに、頬が熱くなるのを感じる。
「今はまだ教えられないよ。そのうち嫌でも知るだろうけどね」
 少年が右手に魔力を集める。途端に頭が割れるような、重い痛みが脳を駆け巡る。
「何をした…!」
「…やっぱりあんたは知らないんだね」
 そう言った彼は無表情だった。その翠の瞳を見て、ササライは無性に羨ましくなった。
 彼は知っているのだ。彼の正体も、己の正体も、戦場を覆うこの魔力の理由も。
 少年と視線が真っ直ぐに交わった。意図せず、言葉が零れ落ちる。

「君は、全てを知ることを許されているんだね…」



***



「我が真なる風の紋章よ、大気と精霊の力を集め…」

 その瞳に浮かぶのは羨望だった。
 同じように生まれ、全く異なる育ち方をした彼が浮かべたのは確かに羨望だった。

「大地を切り裂く刃となりて我が敵を切り裂け!!」



***



 アスは遠く離れた戦場に突如現れた巨大な竜巻に目を瞠った。
「ルック……だよね」
「そうだ」
 独り言に返事が返ってきたことに驚いて隣を見遣る。シーナが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。彼が負の表情を露わにするのは珍しい。
「ちゃんと、見てろよ」
 シーナが言い含めるように言った。アスは竜巻に目を戻す。
 ……竜巻が、徐々に赤く染まる。
「おまえのためだけではないとしても……おまえを救う、刃だ」
 その意味は痛いほどにわかっていた。彼一人に殺戮をさせることを軍主として恥じていた。
 轟音が響く。魔術師の姿は視認できないほど遠い。それでも悲鳴が空を割き、死の香りが漂ってくる。

 その強大な力を恐ろしいと思った己の心を叱咤した。



***



 フリックは茫然と目の前の光景を眺めていた。将にあるまじきことだと思いながらも行動できなかったのだ。
 風使いが、背を向けて独り、佇んでいる。
 その向こうでは巨大な竜巻が敵軍を蹂躙する。真っ赤に染まった竜巻は勢いを弱めることなく、ただひたすらに殺戮を繰り返している。跳ね飛ばされた石ころがフリックの馬の足元にごとりと落ちてきて、視線を落として悲鳴を呑んだ。半分に割れた人の頭だった。
 フリックは傭兵だ。戦いなど嫌になるほど経験している。人の死を看取ったことも、人を殺したことも、仲間を殺されたことも、数えきれないくらいある。
 けれども目の前に広がるこれは違った。これは戦などではなかった。
 虐殺だ。
 背筋がぞわりと震える。絶えない断末魔に耳を塞ぎたくなった。
 フリックはこれと同じ感覚を知っていた。戦をすることすら許されず、圧倒的な力の前になす術もなく。たった一人の強者が他人の誇りも尊厳も踏み躙って命を奪う、この光景に覚えがあった。

 脳裏に蘇るのは、焼け落ちた傭兵隊の砦。

 フリックは少年の後ろ姿を凝視していた。紋章の申し子は振り返らなかった。



***



 轟音が戦場を覆う。兄は守りの天蓋をとっさに展開したけれど、他の部隊は間に合わなかっただろう。風が己の魔力を吸って暴れまわるのをルックは感じていた。全身の力はとうに抜けているけれど、風が倒れることを許してくれない。ルックはその場に立ち尽くしたまま戦場が紅に染まってゆくのを眺める。
 瞬きの魔法だろうか、兄の部隊が転移するのを感じとった。彼を殺せるとは思っていなかったから構わない。
 久し振りに解放を許された風たちは歓喜のままに兵士たちを切り裂いてゆく。目の前で迸る紅を、それでもルックが浴びることはなかった。滑稽だと思う。誰よりも多く人を殺す己は、穢れなど知らぬかのような顔をして帰還するのだ。

 ルックはゆっくりと戦場を眺めた。遠く、敵国の大将旗が翻る。
 あり得ないことだけれど、視線が噛み合ったような気がした。

 ――獣が居る。

 風に促されるまま身を溶かす。脳裏に浮かぶのは、兄の、羨望の眼差しだった。