『悲しい瞳になりましたね』
そりゃあちょっとないだろう。シーナは突っ込みたくなるのを寸前でこらえた。
レックナート様が隣に来てる。そうルックが呟いたのは夜も更けてからだ。シーナとフェンは顔を見合わせてから耳を壁に押し付け、ルックの呆れた視線に耐えながらも一部始終を聞き終えた。
苦しい道になるでしょう、星見の魔女は労わる声音でそう告げた。けれども我らが軍主にその紋章を与えたのは、彼女自身ではなかったか。弟子を慮って声には出さなかったが、シーナはこっそりと眉を顰めた。
「相変わらずだなおまえの師匠は。僕は好きじゃない」
そんなシーナの思いやりを元上司がさっくりと切り捨てる。惨事の予感に思わず守りの天蓋を展開しかけたが、意外にも星見の弟子は冷静だった。
「別にいいんじゃない。君が嫌ったところであの方が気になさるとは思えないし」
「…ルック、怒らないんだ?」
「どうして怒る必要があるのさ。彼女を侮辱するならともかく、コレのはただの感想だろ」
「ルック、コレとかアレとか呼ぶのやめてくれない。傷つく」
「鋼の神経もってるクセしてよく言うよ…」
「まあまあ。それより、どうする?」
フェンは壁から離れてベッドの上、ルックの隣に腰を下ろす。どうするって言われても、と彼はのたまう。
「逃げ出すに10000ポッチ。ルックは?」
「端から賭けにならないよ、あいつは逃げるだろ」
「シーナは?」
「うん…いや、俺もそう思うけどさ…。フェン、おまえ、慕われてるんだから…。アスが聞いたら泣くぞ…?」
「あれ謎だよね。どうしてフェンなんか慕うんだろう」
「ルック?僕、何かした?」
「さあね。とりあえず僕はあいつらを送ってくる。あとのことはあんたたちで進めといてよ」
「ルック、おまえ、成長したなあ…。3年前ならその言葉はなかっただろーに」
「…切り裂かれたいならそう言いなよ、遠慮はいらない。大体これは僕の仕事だ、星が離れるまでは天魁星の意志に従うし、その選択は見届ける。フェンの時だって見送ってやったじゃないか」
「…え?ちょっと待てルック、それって3年前のあの夜、僕を見送ってくれたのは仕事だったからってことか?」
「……さあね?」
ルックは小生意気な表情で笑った。その顔をフェンが両手で挟み込む。
「ちょ、そこ大事だって。あの時、出て行こうとした門にルックがいて感動したんだからな」
「…あのさあ、そこに俺もいたんだけど、スルー?つか見送ったのって俺だけじゃね?ルックはおまえと同時に消えたじゃねーか」
「シーナは黙ってろ」
「はあい…」
「どうでもいいじゃないか、そんなこと。それより上手く立ち回ってよね」
「どうでも…。まあいいや、その追及は帰ってきてからにするよ。月の御方とヴァンパイヤハンターを連れてくればいいんだろ?」
「君は挨拶しておくといい。シエラには世話になるときもあるかもしれないし、彼女は中立だ」
「…何と、何の間において?」
「さあ。少なくとも僕の師匠とは違う意味で」
そこまで言うと、ルックは耳を澄ませた。風の声を聴いているのだろう。
「…僕はもう行く」
そのまま彼は風に溶ける。シーナはフェンと顔を見合わせた。
「…作戦でも、練る?」
「…シュウに怒られんのは、俺らだろうなあ…」
***
「わたしたちって、どこの人間なんだろうね…」
僕らは何者にもなれない。ハイランドの民にも、都市同盟の長にも。
「アスが戦わなきゃいけない理由なんかないよ…。
戦って、傷ついて、武器を振るって、人を殺めて、そんなことをする理由はないよ…」
ごめん、ナナミ。君の痛みに気付いてやれなくて。自分の痛みだけに傷ついていて。
「ね、ね、ね、アス…どっか…どっかさあ、遠い、遠いところ、
ハイランドも都市同盟も聞いたことないところまで、逃げようよ…」
ごめん、ジョウイ。僕は君のようには強く在れない。
僕は弱い。ナナミひとりの心を守ってやれないほどに、弱い。
ごめん、ジョウイ。ごめんなさい、みんな。
僕は世界をなくすために、瞼を閉じる。