『この国は僕らを裏切ったし、僕も一度はこの国を裏切った。
 皇王が瞼を閉ざし、皇子は戦乱を望み、人々は血に倦んでいる。
 それでもこの国を建て直せると思う僕は、愚かなのかもしれない。
 だけど僕はこの国を愛している。ハイランドを、心から愛している。
 だって、僕は…………』



 家は既に囲まれている。完全に自分の失態だった。
「申し訳ありません、ジル様」
 ワタリは深く頭を垂れて跪いた。面を上げて、という声に従えば、質素なワンピースを纏って木の椅子に腰掛けた女性は、慈愛の微笑みをその顔に浮かべた。
「いいのよワタリ。私たちがあなたに甘え過ぎていたのだわ。……それよりも、どちらさまかわかるかしら」
「ハルモニアの軍人と思われます」
「そう……。ならば私たちを殺しはしないでしょう、理由がないもの」
 おそらくはそうだろう、とワタリも思った。ハルモニアの軍服を着た人間がジル・ブライトを殺す理由などない。この家に共に住むピリカもまた 殺されはしないだろう。彼らは敵と見定めた相手には容赦がないが、戦う術を持たぬ少女をいたずらに殺したりはしない。だが、ワタリはおとなしく彼らに捕まる訳にはいかなかった。
 ワタリはカゲと呼ばれる忍びの里で生まれ、育った。初任務は10歳のとき、戦時下のハイランド王国における諜報活動だ。王国敗北が確実となった時点でカゲは撤退したが、皇王の最後の依頼としてワタリは彼の妻と親しい少女の護衛を受け、そのまま12年の歳月を彼女たちと共に過ごしてきた。
 本当は、ずっと傍にいる義理などないのだ。ハイランド領を抜けてハルモニアに入り、彼女たちの当座の安全を確保するだけで良かった。それでも長い間彼女たちと共に暮らし続けてしまった自分は、おそらく忍びとは呼べないのだろう。里は自分がこの家に居ることをかろうじて許容しているけれど、ふた月に一度は監視役がやってくる。ワタリが捕まったことが知れれば、彼らは人知れずハルモニア軍に忍び込み、己の首筋に針を刺して帰るだろう。カゲとはそういう生き物の集まりだ。
「お逃げなさい」
 ジルが唐突に言った。彼女の瞳をまっすぐに見返すと、もう一度、しっかりと繰り返す。
「お逃げなさい、ワタリ。あなたは捕まってはいけないわ」
「……今更、何処に逃げよと仰るのですか」
「デュナンよ。デュナンに逃げて、そして伝えてください」
 奥の部屋から続く扉をそっと開けてピリカが入ってきた。構わずジルは言葉を続ける。
「彼に、あの人の親友に伝えてください。私の名に構わず、あなたが最善と思う行動をとってくださいと。これから起こる出来事は、私の意志によるものではありませんと」
 そう言って、ジルは小さく微笑んだ。愛おしいものを懐かしむかのように。
「私は彼と話をする機会は得られませんでしたが……。あの人はいつだって彼のことばかり話していたものだから、まるで私まで彼を親友のように感じてしまって。だから思うのです、彼はきっと私などに言われずとも過たず道を進むでしょう。けれど、私と争うことを悲しむでしょうと。悲しんでくれるでしょうと」
 ジルは隣に座ったピリカの茶色い髪を優しく撫でた。二つに縛ったそれは胸のあたりまで垂らされている。
「だからどうか行って、ワタリ。私たちのことは心配しないで」
 それでも躊躇って、ワタリはピリカに視線を移した。彼女はふわりと表情を緩ませる。
「大丈夫だよ、ワタリお兄ちゃん。それに私、決めてるの。ずっとジルお姉ちゃんと一緒にいるって」
 二人がそう決めているのなら、ワタリは従うしかなかった。第一、ワタリがいくら忍びとはいえ、彼女たちを連れて逃げることは不可能なのだ。
「…………では、俺は行きます」
「そんな最期の別れのような顔をしないで。私たちは死ぬために捕まるのではないし、あなたは生きるために逃げるのよ」
 ジルは手を伸ばして、ワタリの頭をやさしく撫でた。幼子に触れるかのようなそれはとても心地良くて、ワタリはどうすれば良いかわからなかった。
「別れを惜しんじゃいけないんだよ、ワタリお兄ちゃん」
 ピリカが泣きそうな顔で、けれども得意げな声でそう告げる。その言葉に纏わる思い出話は、彼女から何度も聞かされたことがあった。繰り返し、繰り返し、呆れるほどに三人で彼の話をした。
「だって私たちは、一緒に過ごす時間を、めいっぱい大事にしてきたでしょ?」
 ワタリは深く息を吸った。家の外に感じる人の気配は近付いている。
「ジル様、ピリカ。…………どうか、ご無事で」
 それだけ言って、ワタリは駆け出した。裏口を通り、軍人に気付かれぬよう、跳ぶように走る。家を取り囲む彼らをひとりずつ殺して回りたい残虐な気持ちを抑えつけ、ワタリはただひたすらにデュナンへと駆けた。ハイランドを呑みこんだ、彼の国へと。


『だって、僕は、この国で彼らと出会えた』